にっぽん野球昔ばなし by 九時星

    第三十一回 大投手守山恒太郎

    第三十二回 一高時代の終焉・その1

    第三十三回 一高時代の終焉・その2

    第三十四回 一高時代の終焉・その3

    第三十五回 早慶相討つ



     第三十一回 大投手守山恒太郎


     大エース青井が卒業してから全盛に陰りの見えていた一高でありますが、この窮地を救ったのが明治時代を代表する大投手、守山恒太郎であります。しかしながら守山大投手は快速球ではありましたが、コントロールに難のある投手でもありました。それもあって入学間もない明治32年に登板した青山学院戦に2敗するという不名誉を喫したのであります。彼はそれを克服するために月の光を頼りに連夜投げ込みを行い、ついには煉瓦の壁を一尺(約30cm)四方にわたって貫いてしまったのであります。その穴は「守山先輩苦心の跡」と墨書きされて、一高黄金時代を彩る伝説として野球部員たちに代々語り継がれていったのでありました。もっとも、守山大投手は一高を愛し、信念と情熱の人でもありましたが、卒業後に審判を頼まれると一高を愛するあまり、信念と情熱を持って堂々と一高びいきの偏った判定をする困った人でもありました。

     さて、守山大投手の最も華やかな活躍は明治35年5月の横浜アマチュア倶楽部戦であります。二高への復讐試合もかなわずとあれば、当時の一高にとってこのチームとの対戦が国際試合としてもっとも重視されていたのでありました。そしてまた、前年の敗戦の復讐戦でもあります。
     実は前年も守山大投手を擁して対戦し、劣勢から追い上げた9回裏、2死2,3塁、点差は僅か一点、相手投手の投球はホームベースに覆い被さる一高打者の肩に当たりデッドボールで好機は広がったかに思えたのでありますが故意に当たったとして打者アウト、ゲームセットとなったのでありました。この屈辱晴らさで置くべきかとばかり猛練習に明け暮れて雌伏一年、横浜公園球場のマウンドで守山大投手は快投を演じるのでありました。一高4−0横浜、なんと完封試合!当時の呼び方に従いますとスコンクゲーム!一高勢の喜ぶまいことか、当時の興奮を『向陵誌』の観戦記は次のように伝えたのであります。

     ―急如として起る喚声は空に轟き、地に響く、実に吾は勝ちたり、昨の敗を雪(そそ)ぎたるなり、国際試合のスコンクゲーム、ああ是を盛と云はずして何ぞ、校友狂喜為す所を知らず、選手を抱いて嗚咽す、選手また感極まって涙滂沱たり―

     その僅か1週間後、アメリカ艦隊ケンタッキー号の乗員チームと対戦し34対1で大勝、しかも守山大投手は9回途中まで0点に抑え、あわや国際試合での2試合連続完封という快挙を成し遂げるところでありました。まさに大投手守山、そして一高の黄金時代は絶頂に至ったのでありました。

     しかし、絶頂は続かないものでありまして、その秋に守山大投手が卒業すると、長きにわたった一高時代もそろそろ終わりが近付いてきたのであります。まず最初に挑戦したのは慶応大学。明治36年2月、一高に試合を申し込んだのであります。なにしろ一高は当時の日本の代表チームでありますから慶応も礼を尽して『御試合致し度此段奉願上候…(お試合いたしたく、この段願いあげたてまつりそうろう)』と申し入れたところ、一高から書式を書き直すように言われ『練習試合をお願い致し度御許可相成度奉願上候(練習試合をお願いいたしたくご許可あいなりたく願いあげたてまつりそうろう)』…慶応もさすがにばかばかしいとは思ったようでありますが、戦えば勝つ自信があったのでありましょう、その通りに書き直してお許しをいただいたのでありました。
     試合日は2月24日、場所は一高校庭、審判は卒業した守山大投手。何から何まで一高の言いなりではありますがともかく試合は始まったのであります。さすがに自信のあった慶応、4回までに7対2と優勢に試合を進めたのでありますが、試合も後半に入ると徐々に守山大投手の愛校心判定が増えてまいりまして、ついに一高13−10慶応となってしまい、古豪慶応も一高の牙城を崩すことが出来なかったのであります。

     しかしながら慶応の実力が一高を脅かすほどになっていることはもう疑いようのない事実でありまして、彼等もまた雪辱を誓って練習に励むのでありました。そしてまた一チーム、野球部が出来たばかりという新興ながら、郁文館を率いて一高を倒した押川清、同じく青山学院を率いて一高を倒した橋戸信などが入部して急速に強豪チームへと成長した早稲田もまた打倒一高を虎視眈々と狙っていたのでありました。そして彼等によって一高時代はとうとう幕を下ろす時を迎えるのであります。
     次回にっぽん野球昔ばなしは「一高時代の終焉」です。



     第三十二回 一高時代の終焉・その1


     明治36年2月に行われた一高対慶応戦は慶応の惜敗となったのでありますが、なにしろ一高グラウンドで行なわれる“練習”試合でありますから一高側は正式のユニフォームではなく練習着、打順も投手、捕手から始まって守備順になっておりまして、要するに本気で戦う相手ではないと見下しておるわけであります。なかでも厄介なのが「練習だからラインを引かなくてもいい」といってご丁寧にも僅かに残ったラインさえ消してしまうものですから、フェアかファウルかの判定が甚だ困難になるわけでありまして、そこに愛校心大先輩が審判をしたものですから、慶応の憤慨いかばかりか、であります。とはいえ当時の一高は自他ともに認める日本野球界の盟主でありまして、慶応一同、その気持ちをぐっとこらえて臥薪嘗胆、打倒一高を目指して練習に明け暮れるのでありました。

     さて、この試合を熱心に観戦していた観客の中に早稲田2塁手・押川清がいたのであります。新興とはいえ各中学の精鋭たちが入学し急激に力をつけてきた早稲田としては、いずれ王者一高に挑戦しようとの魂胆を持っていたのでありますが、いざ試合を見てみて愛校心大先輩殿の審判ぶりに驚いたのでありました。なんとかせねば勝ち目はない、と主将の橋戸信と計略を練るのでありました。

     この早稲田大学はもと東京専門学校と称しておりましたが、明治35年10月に早稲田大学と改称したのであります。野球部は専門学校時代から存在しておりましたが、本格的な活動は大学への改称準備のために若い選手が大挙入部した明治34年4月からの新興でありまして、かたや慶応は新橋倶楽部、三田倶楽部の時代から野球に親しむ者多く、明治20年には慶應義塾大学体育会野球部として発足し、明治26年には一度は一高に勝利したこともある名門でありました。
     早稲田としては一高に挑戦する前にこの慶応と対戦し己の力を測ってみたいという思いが出てきたのでありましょう、明治36年11月、早稲田から慶応に挑戦状が送られ11月21日に両校の初対戦が実現するのでありました。早稲田の胸には「W」一文字、対する慶応は「KEIO」のマークで威風堂々の対戦、といいたいところでありますがまだまだ下半身は脚絆ばきに足袋だのはだしだのが少なからず居る時代でもありました。この記念すべき第1回早慶戦は11−9で慶応の勝利となりましたが、両者の実力拮抗、今後の両者対決の盛り上がりを予想させる試合でありました。

     この試合を経ていよいよ早稲田が一高に挑戦するときがやってくるのであります。そして慶応もまた一高に雪辱戦を申し込むのでありました。ここで問題は愛校心大先輩をどうやって審判から遠ざけるか、ということでありまして、押川清と計略を練った早稲田主将・橋戸信はテニスを通じて面識のあった一高野球部OB・久保田氏に事前に了解を取り、練習試合の審判を久保田氏にお願いするよう一高に頼んだのであります。一高としても守山大投手もOBなら久保田氏もOB、むげに断れないわけであります。早稲田にしてもどうせ一高OBが審判となるならば、公平さより母校愛の勝る守山大投手よりも母校愛より公平さの勝る久保田氏が望ましいのは言うまでもないことであります。それは前年の練習試合で煮え湯を飲まされた慶応にとっても譲れないことで、久保田氏の審判を一高に了解させたのでありました。

     対する一高はいまだ早稲田、慶応など格下だという意識を持っておりますから、明治37年6月1日に早稲田、6月2日に慶応と、2日続きの練習試合を受けたのでありました。そしてついにはじまった一高対早稲田の練習試合、例によって一高のオーダーは当時の守備順に従って投手・捕手・遊撃・一・二・三・左・中・右と並べたのでありますが、なんと早稲田もまたそっくりそのまま、守備順のオーダーを組んできたのであります。一高の怒るまいことか、それを見てほくそえむのが早稲田の策士・押川清でありました。
     さて、早稲田、慶応の両雄は一高時代に終止符を打つのか、次回にっぽん野球昔ばなしは「一高時代の終焉・その2」です。



     第三十三回 一高時代の終焉・その2


     明治37年6月1日、早稲田の記念すべき一高との初対戦にマウンドに上がったのは河野安通志、のちにアイアン・コーノと呼ばれた名投手であります。二塁には春浪センセイの弟押川清、遊撃には橋戸信主将と中学時代に一高に勝利した経験のある名選手が揃い、事前の根回しよろしく主審から愛校心大先輩をはずすことに成功しているのでありました。
     一方の一高、この数日前の米国海軍チームとの試合で中野武二を負傷で欠いております。中野といえば難攻不落の要塞の名を取って“老鉄山”と仇名される名手でありまして、一高にとっては痛い戦力ダウンなのでありますが、なあにこのくらいのハンデでちょうどいい、てな調子でまだまだ早稲田を見下しておりました。ところが、そこに早稲田押川の計略によるポジション順の打順を見せ付けられたわけで、痛く自尊心を傷つけられて怒り心頭に達したのでありました。

     怒りに平常心を失ったといっても一高、愛校心大先輩が居ないといっても一高、伊達に長年本邦野球界の頂点に立ちつづけているわけではないのでありました。1回、2回と点を入れたちまち3点のリードを奪ったのであります。しかしながら新興といえども早稲田も中学時代からの名手揃い、2回に2点を返すと試合はそのまま膠着状態に陥ったのでありました。
     こうなると一高の怒りは焦りを生んで、攻撃に臨んでは大振りが目立ち、守備に就いては危さが目立ってきたのでありました。そしてついに5回、早稲田は一高のエラーに乗じて一挙4点を上げ試合を逆転したのでありました。その後早稲田が3点、一高が1点を追加して9対4で迎えた最終回、殺気立つ一高応援団、その中に愛校心大先輩も加わっているのでありますが審判でない身ではいかんともしがたく、一高執念の追い上げも2点を加えるのみ、ついに王者一高は新興早稲田の前に9対6で敗れたのでありました。
     大喜びする早稲田、呆然とする一高、かくなるうえは早急に雪辱せんとばかりに再戦を申し入れた一高でありますが早稲田は即答せず、一高は更に地団駄を踏む羽目になったのでありました。しかしながらいつまでも地団駄踏んでばかりもいられません。翌日には早稲田よりも更に強いと思われる慶応との試合が控えているのであります。

     明けて2日、慶応は早稲田勝利を受けて、意気揚々と向ヶ丘に現れたのであります。打順も早稲田に倣い守備順に並べて、審判もかねての手筈通り愛校心大先輩を遠ざけて…とよく見ると一高グラウンドには守山愛校心大先輩が…「審判の久保田さんはどうしたのか」「久保田先輩は急病のため急遽守山先輩に審判をお願いした」…急病とあっては仕方がない、と慶応があきらめて一高の打順を見るとなんと正式の対抗試合用の打順を組んできているのでありました。喚声を上げる一高応援団。ふとそちらを見やった慶応選手がその一団の中に見たものは…急病のはずの久保田先輩の姿でありました。

     もはやなりふり構わぬ一高、慶応の雪辱はなるのか、次回にっぽん野球昔ばなしは「一高時代の終焉・その3」です。



     第三十四回 一高時代の終焉・その3


     雪辱に燃える慶応と、もはや負けられぬ一高との一戦は守山愛校心大先輩の審判で始まったのであります。1回に一高が1点を先行するとその裏慶応はたちまち3点を挙げて逆転、2回に一高が1点を挙げて追いすがると慶応はまたもその裏3点を挙げて突き放し、3回にも1点を加え序盤を7対2と大きくリードしたのでありました。
     慶応マウンドに立つは巨漢にして容貌怪偉、強烈な速球とコントロールに長じると評された大エース櫻井彌一郎でありますが、リードを広げるにつれて大先輩審判殿の愛校心が発揮されてきたのであります。すなわち、コーナーを狙えばことごとくボール、やむを得ず真ん中に投げれば打たれやすくなる道理でありまして、一高は5回、6回に1点ずつを挙げて追い上げたのであります。しかし慶応もここで負けるわけには行かないわけでありまして、6回裏に3点を挙げて9対4、再び5点のリードを得たのでありました。

     一高は、早稲田に続き慶応にも敗れてしまうともはや権威失墜は免れないかという大ピンチに陥ったわけでありますが、8回1死後、連続四球を得てチャンスを広げたのであります。が、この好機に次打者の打球は平凡なライトフライ、走者はそのまま動かなかったのでありますが、あにはからんや打球は慶応右翼手の前に落ち、あわてて走り出したのであります。しかし時すでに遅し、送球を2塁手が受けたときにはまだ塁の5間(約9m)手前とあってはもはやこれまでとばかりすごすごとラインの外に出て帰りかけ、それを見た2塁手は投手に送球、やれやれこれでツーアウトと慶応ナインがほっとした瞬間に愛校心大審判殿が一言、「セーフ」。
     あまりに乱暴な判定に慶応が度肝を抜かれあっけに取られている間に、帰りかけたランナーはあわてて2塁に入って1死満塁。抗議をしたいが愛校心大先輩が聞き入れるわけもなく、せっかく5点をリードし勝利に近づいている試合を無効にされかねないとあっては泣き寝入りするしかなく、気を取り直して試合を再開したのでありますが動揺は消えず、一高の連打を浴び、エラーも重なり一気に5点を失ったのでありました。

     試合は9対9の同点となり、迎えた9回表、一高1点を挙げついにリードを奪い、その裏慶応最後の攻撃もたちまち2死無走者、一高応援団の歓声は否が応でも高まり慶応敗色濃厚であります。次打者は遊撃への内野安打、ここで打席に立つのは容貌怪偉にして巨漢の櫻井、バット一閃、今までの鬱憤を晴らすかのような一撃は遠く中堅の頭上を越え土手へと向かって転々、起死回生の同点打、さらに櫻井もその巨躯を揺らして長駆本塁へ、ようやく打球に追いついた一高中堅からの送球も本塁へ、逆転なるか、同点にとどめるか、球はわずかに速く捕手へと到達し万事休すと思われたその瞬間、無常にもその掌からこぼれ出し、地上を這い…『慶応義塾野球部史』に曰く、「さすがの守山もこれをアウトとは云えなかった。」
     歓喜する慶応勢、劇的な逆転サヨナラ勝ちで前年の雪辱を果たしたのであります。一方、早稲田、慶応と2日続けて敗れた一高、日本野球界の覇者に落日が訪れた瞬間でもありました。しかも一高を破った早慶両校が翌4日には対戦するとあって、都下の野球愛好家の注目は一気に高まったのでありました。次回のにっぽん野球昔ばなしは「早慶相打つ」です。



     第三十五回 早慶相討つ


     早慶両校の記念すべき第一回対戦は明治36年11月21日であり、今回は第2回目の対戦ということになるのでありますが、何しろ今回は早慶両校が長年日本野球界の頂点に君臨した一高を立て続けに破ったあとでの対戦でありまして、帝都の野球愛好家たちの注目は否が応でも高まったのでありました。

     ちなみに第一回の対戦でありますが、新興・早稲田が古豪・慶応に挑戦する形で始まったのであります。早稲田大学野球部主将・橋戸信の挑戦状に曰く、『……貴部益御隆盛之段斯道の為め奉賀候弊部依然として不振従ふて選手皆幼稚を免れす候に就ては近日の中御教示にあづかり以て大に学ぶところあらば素志比上もなく候……』と、先輩格の慶応に対して礼を尽くして試合を申し込み、慶応・三田綱町球場まで三里(約12q)の道を徒歩で乗り込んでいったのでありました。
     この時点でも早慶両校は注目される存在でありまして、時事新報の記事では『慶応義塾対早稲田大学野球試合は昨日午後一時より綱町蜂須賀侯爵邸内運動場に於て催されたるが、初対面のこととて勝敗何れとも予想されず、殊に慶応の方には宮原、時任なんといふ所謂東海道武者修業連あり、早稲田の方には往年神戸にて外人と戦いて名を博せし泉谷、また第一高等学校を破りたる橋戸等の剛の者あるを以て各選手の意気ごみは云ふまでもなく、実に満都野球界の注目して私立学校の模範試合となす所なりし。さればにや、各学校よりの見物人約数千人と註せられ非常なる盛会なりしが……』云々と紹介されたのでありました。
     慶応・櫻井彌一郎、早稲田・河野安通志の両エースの投げ合いで始まった早慶初対戦は先輩格の慶応が新興・早稲田を11対9で下したのでありますが、好勝負になったことと意外に人気を集めたことから、両校は春秋二季に一回ずつ定期戦を行うことを決定したのでありました。

     早慶両校の取り決めによる第一回定期戦が奇しくも両校そろって一高を破った翌日になったわけでありますが、当然ながらその注目度は前年を更に上回ったのであります。場所は前年と同じ三田綱町球場、早稲田の選手たちはまた三里の道を歩いていくのでありますが、慶応の選手たちもまた、一高との試合の疲れを癒すまもなくグラウンド整備に励むのでありました。なかでも重労働のローラーかけは巨漢エース・櫻井の仕事と決まっておりまして、「肩は大丈夫か」「なあに、寝りゃあ治る」などと、鷹揚な時代でありました。
     試合は前年と同じく慶応・櫻井、早稲田・河野の投げあいで始まったのでありますが、試合も中盤を過ぎるころ、さしもの容貌魁偉、豪腕で鳴らす慶応エース・櫻井にも疲れが見えてきたのであります。6回に3点を失い8対7と逆転されるとついにマウンドを降りたのでありますが、早稲田は交代した投手を攻めて7回に3点、9回にも2点を挙げとうとう13対7で早稲田の勝利となったのでありました。

     早慶両校が熱戦を繰り広げた同じ日、両校に敗れた一高は横浜に遠征し、横浜アマチュア倶楽部と対戦、エース黒田が13三振を奪う力投で勝利、いまだ一高衰えずを見せつけ、早慶時代となっていくのか、一高の復権はあるのか、更にはその一高と同等の実力とみなされている学習院を含め4強群雄割拠となっていくのか、あるいは早稲田一強時代になっていくのか、世の野球愛好家は喧々囂々、侃々諤々議論を戦わせていくのでありました。 この年、早稲田は一高、慶応を連破、5月には学習院にも勝利しており3戦全勝でありましたが、果たしてこのまま早稲田の連勝は続くのか、次回にっぽん野球昔ばなしは「早稲田の快進撃」です。


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