ぼーる通信最新号
(日本シリーズ特別第1〜4号)
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ぼーる通信 〜Voice From The Dreamfield〜
日本プロ野球史:大阪近鉄バファローズ(1)
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☆ お品書き
●Team Chronicles
〜The History of Nippon Professional Baseball Teams〜
Series 2:大阪近鉄バファローズ 第1回
by アトムフライヤー
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【第1回】
読者のみなさまこんばんは。
ぼーる通信も、このシリーズの特別号を発行して以来長
らくご無沙汰していましたが、まずは、続くこの連載を発行
後に、準備を整え、通常ペースで再開します。
よろしくおつきあいください。
2004年の球界再編騒動でなくなってしまった大阪“近
鉄“バファローズ。
何度もパシフィック・リーグを制覇しながら、ついには日
本一になれず、9年間監督を務めた西本幸雄が”悲劇の名将“
と呼ばれたこともありました。
また、投手としても打者としても一流の成績を残した関根
潤三、2,000本安打の土井正博や新井宏昌、300勝投手の鈴木
啓示、そしていうまでもなく、メジャーリーガーとして活躍
してきた野茂英雄や吉井理人が在籍した名門球団でも、あり
ます。
それから、伝説となっている1988年10月19日の、
いまや“亡き”川崎球場でのダブルヘッダー。このシーズン
のプロ野球の主役は、間違いなく、仰木彬率いる近鉄バファ
ローズでした。当時は森祇晶監督率いる“冷徹でマシンのよ
うな”西武ライオンズと、アナもあるけど、豪快で人間臭さ
全開の仰木バファローズとが覇を競い、パ・リーグは非常に
盛り上がったものです。その翌年も、上田利治率いる阪急ブ
レーブスを加えて3つ巴の戦いを演じ、0.5ゲーム差の優勝
争いで盛り上がった熱パを制し、パ・リーグ優勝を遂げてい
ます。
紆余曲折を経て球団自体はなくなってしまいましたが、こ
の球団の本体がオリックス・ブルーウェーヴと合併する一方
で、そこから漏れた一部が母体となって、現在の東北楽天イ
ーグルス誕生につながっていくところまで、当シリーズでは
紹介していきましょう。
大阪近鉄バファローズは、1949年11月に結成され、
近鉄パールスとしてパシフィック・リーグに加わっています。
元々近鉄の佐伯勇社長は野球好きで、1944年に南海と
提携し、近畿球団として野球に関わっていたことがあったわ
けですが、1946年の提携解消後は、日本一の私鉄のメン
ツにかけて自前で球団を経営する、と花火を打ち上げ、チー
ムを結成したのでした。
ただし、佐伯社長の採った行動は、実際には非常に慎重な
ものでした。
このときは日本野球連盟に所属する既存の8球団が、選手
不足などの理由に伴う既得権を確保するため、新球団の加盟
を認めない動きを見せていたわけですが、佐伯社長は決して
表だって動かず、機会をうかがい、毎日オリオンズの球団加
盟にあわせて参加したのでした。したがって近鉄球団のリー
グ加盟は、特段大きなトラブルを起こすことはなかったので
す。
そして二リーグ分裂時には、以前から私鉄会社による電鉄
リーグ結成の話を阪急、南海から受けていたため、西鉄と共
にパ・リーグに参加しています。
ちなみに新球団、近鉄パールスの球団名“パールス”の由
来は、近鉄沿線の伊勢志摩真珠からきています。しかしチー
ムは人材不足で、弱いことから、負けるたびに、スポーツ紙
には「近鉄真珠の涙を流す」と書かれる始末でした。
チームがスタートしたとき、監督には、当時法政大学野球
部監督だった藤田省三が就任しました。したがって選手には、
監督とのつながりから自然と法政大学出身者が多かったので
す。また藤田監督の影の人として、スカウトには大西利邑が
就任、当時の日本で一番実力のあった6大学出身の選手たち
中心のフレッシュなチームづくりを進めるべく、奔走します。
そして藤田−大西ラインで獲得した選手の中には、*1関根潤
三や*2根本陸雄といったひとたちがいました。
*1 関根潤三
法政大学から恩師の藤田監督に誘われ、近鉄パールスの結成
に参加。投手として入団したが、登板のないときは外野を守
った。1951年にチーム初のオールスター出場を果たす。
通算65勝。パールス創生期を支えた投手のひとり。
昭和32年からは肩を壊して、外野に専念。左打ちの好打者
として近鉄パールス→バファロー→バファローズにて通算1
089安打を放った。1964年のシーズン後、巨人に移籍。
翌年引退。
その後広島カープ、巨人のコーチ、大洋ホエールズ、ヤクル
トスワローズの監督をつとめた。
佐伯オーナーとの確執から近鉄とは距離を置いていたが、佐
伯オーナーの死とともに和解し、現在は近鉄バファローズO
B会長をつとめる。
プロ野球界に残った唯一のバファローズ創生期の選手であり、
今後の近鉄球団の歴史を語ることを期待される。フジテレビ
系列のプロ野球ニュースにて、好々爺的な解説ぶりが人気を
博した。
*2 根本陸雄
川崎コロムビアから恩師の藤田監督に誘われ、1952年に
近鉄パールスに入団。捕手をつとめ、1953年にはレギュ
ラーとして活躍するが、1956年からは控えにまわった。
1957年にホークスに移籍、そして引退。その後スカウト
を経てから1962年より5年間パールスのコーチをつとめ、
さらに広島カープコーチ・監督、クラウンライター→西武ラ
イオンズ監督、ダイエーホークス監督をつとめた。広島カー
プ時代はチームを初のAクラスに押し上げ、西武ライオンズ、
ダイエーホークス時代には優勝をねらえるチームの基礎作り
を行った。
西武ライオンズやダイエーホークスの球団代表時代は次々と
アマチュアの有力選手を入団させ、その辣腕ぶりから「球界
の寝業師」の異名を取った。日本初のゼネラルマネージャー
と言われている。
関根潤三とは日大三中、法政大学でバッテリーを組んだ仲で、
その縁で関根は、根本が監督時代に広島カープのコーチをつ
とめている。
1999年に死去。その腕を惜しむ声は球界の内外から多か
った。2000年に殿堂入り。
これらフレッシュなルーキーたちに、野球スキルに長けた
東京六大学出身者を中心として既存の球団から引き抜いた、
*3黒尾重明(東急フライヤーズ)、*4田川豊(南海ホークス)、
*5森下重好(太陽ロビンス)、*6山本静雄(中日ドラゴンズ)
等を加えてスタートしましたが、スキルのないアマチュア出
身選手の欠点を埋めるべく他球団から獲得したプロ経験者と
では技量の差がありすぎて、欠点を埋めるどころか、逆に大
きな軋轢が起こってしまいます。そして、ゼロからスタート
したにもかかわらず3年間の任期しか与えられていなかった
藤田監督には時間が足りなさ過ぎて、この対立を押さえるこ
とができず、チームはバラバラになってしまったのでした。
それに加えて、毎日オリオンズのように、若林忠志や西本幸
雄といった大物球界人のような、強いリーダーシップでチー
ムをまとめることのできる人材もいなければ、社会人野球の
チームからそのままプロになった国鉄スワローズや西鉄ライ
オンズのようなまとまりもなかったので、チームはいつまで
も体裁を整えられる目処が立たず、前途は多難だったのです。
*3 黒尾重明
東京都立化学工業高校から1945年にテストで東京セネタ
ース(現北海道日本ハムファイターズ)に入団。近鉄パール
ス結成時に移籍し、開幕投手をつとめた。あがり症をカヴァ
ーするため投球時に顔をグローブで隠して投げる「スモーク
投法」で人気があった。
東京麻布の生まれで、粋な遊び人として知られており、節制
していれば大投手になったと言われている。1974年に死
去。
*4 田川豊
法政大学から近畿グレートリング(後の近鉄パールスと南海
ホークス、現オリックス・ブレーブスと福岡ソフトバンクホ
ークス)に1946年に入団。契約のもつれから太陽ロビン
ス(現横浜ベイスターズ)に1948年に移籍。
パールス結成時に大学の先輩である藤田監督から誘われ、移
籍し、3年間在籍。引退後はパ・リーグの審判をつとめた。
1981年に死去。
*5 森下重好
法政大学から1946年にパシフィック(後の太陽・松竹ロ
ビンス、現横浜ベイスターズ)に入団。近鉄パールス結成時
に大学の先輩である藤田監督から誘われ、移籍し、1950
シーズンは外野を守って四番をつとめ、30本塁打を打った。
2000年に死去。
*6 山本静雄
豊岡物産から1948年に中日ドラゴンズに入団したが、芽
が出ず、折からのドラゴンズのお家騒動にやる気をなくし、
近鉄パールス結成時に大学の先輩である藤田監督から誘われ、
移籍し、二塁手をつとめた。引退後のわずか2年後の195
9年に死去。
そして案の定、プロとしての戦い方を知らず、まとまりの
ないチームは、創設初年度から最下位に沈んでしまいました。
黒尾、田川、森下、山本等はそれなりの成績を残しました
が、あとは、*7沢藤光郎投手と*8加藤春雄選手がかろうじて
戦力になった程度という非力な陣容で、一度も浮上すること
なく最下位に終わっています。
【1950シーズン 近鉄パールス主力選手成績
(120試合制度、チーム成績44勝72敗4分)】
・投手
黒尾重明 12勝21敗 防御率3.34(リーグ8位) 投球回263.2
沢藤光郎 18勝19敗 防御率3.70 投球回301.2
・野手
田川豊 打率.280 6本塁打 29打点 115安打 107試合出場
森下重好 打率.291 30本塁打 93打点 134安打 118試合出場
山本静雄 打率.230 4本塁打 27打点 86安打 104試合出場
加藤春雄 打率.260 8本塁打 42打点
*7 沢藤光郎
盛岡鉄道管理局から近鉄パールスの結成に32才で参加。チー
ムの初勝利をあげ、この年は18勝をあげた。通算68勝。パ
ールス創生期を支えた投手のひとり。後にコーチ、スコアラー
をつとめた。1987年に死去。
*8 加藤春雄
近鉄の系列会社である大日本土木から請われて、近鉄パールス
結成に32才で参加し、外野を守り、三番を打った。1957
年−1958年に監督をつとめている。
退団後わずか3年後の1961年に死去。
次回はさらに、パールス時代について説明していきます。
(アトムフライヤー)
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