めじゃーりーぐ19XX by Shinorar

    第9回 VOL.9 1954年 After "The Catch"

    第10回 VOL.10 1922年 The MOST-RUNS

    第11回 VOL.11 1983年 It Spends 753Pit to be over.

    第12回 VOL.12 1988年 Dr."ZERO"

    第13回 VOL.13 1920年 ホントにあった怖い出来事



     第9回 VOL.9 1954年 After "The Catch"


     こんにちは、shinorarです。読者の皆様、新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくご愛顧の程お願い申し上げます。

     年末年始に掛け、私は実家でMLB関連の映像、そして念願の「The 100 Greatest Baseball Games of the 20th Century Ranked」を入手し、辞書を片手に一通り読んでいました。
     この本にはトンプソンの逆転3ラン(1951)、フィスクのサヨナラアーチ(1976)などなど、コアなメジャーファンにはたまらないシーンの数々に対する解説がついており、この手の人たちにはまさにうってつけの書籍です。

     その中でも今回は、1954(昭和29)年のワールドシリーズ第1戦(ニューヨーク・ジャイアンツ対クリーヴランド・インディアンズ)をご紹介して参ります。この試合のハイライトと言えば、ジャイアンツのウィリー・メイズによる「THE CATCH」と後に呼ばれることになったスーパープレーばかりが話に出てきますが、そのプレーがあまりにも突出しているがために、以降の試合展開をご存知の方は少ないのではないかと私は考えました。
     それでは、皆様を1954年9月29日、ニューヨークへとご案内いたします。

    ◆ メイズ‐インディアンス投手陣

     今回の主人公、ウィリー・メイズは、1952(昭和27)年途中から兵役につき、実質2年間を棒に振る形になっていたのですが、1954年にメジャー復帰すると、いきなり打率.345、41HR、110打点という好成績をマークし、ニューヨーク・ジャイアンツ3年ぶりのリーグ優勝へと導き、首位打者のタイトルに輝いただけでなく、MVPをも獲得しました。
     一方のインディアンスは、300勝右腕投手のアーリー・ウィン、200勝右腕投手のボブ・レモンを2枚看板とした先発投手陣が安定し、アリーグ・タイの111勝(43敗)と圧倒的な強さでリーグ優勝を果たしました。
     そこで、下馬評では約60%の支持で投手陣が豊富なインディアンス優位との結果が出たが、この予想には、「メイズさえ爆発しなければ」という条件が付いていたのでした。

    ◆ ワールドシリーズ 第1戦

     1954年のワールドシリーズはジャイアンツの本拠地、ポロ・グラウンズにてはじまりました。
     ジャイアンツの先発はシーズン14勝を挙げたマグリー、インディアンスの先発は23勝を挙げ、リーグ最多勝に輝いたボブ・レモン。

     初回、インディアンスが、5番で左の強打者のヴィック・ワーツのタイムリー3ベースヒットで2点を先制すると、ジャイアンツは3回裏、2世選手の息子であるドン・ミューラーの内野ゴロ、ハンク・トンプソンのライト前ヒットで2点を返し、同点に追い付きました。
     そして試合は4回以降、マグリー、レモン両投手の好投で2−2のまま、8回表、インディアンスの攻撃を迎えます。

    ◆ THE CATCH

     8回表、インディアンスは、先頭バッターで3番のラリー・ドビーが四球を選ぶと、4番のアル・ローゼンがヒットで続き、ノーアウト、1・2塁と勝越しのチャンスを得ます。
     そこで、ジャイアンツ首脳陣は先発マグリーをあきらめ、サウスポーのドン・リドルへとスイッチ。一方、バッターは初回に2点タイムリーを放ち、ここまで3打数3安打と当たっている5番の左打者・ワーツ。そして、ワーツがカウント2−1から放った打球は、ポロ・グラウンズのセンターを守っていたメイズの頭を越えんばかりの、大きな打球となりました。
     ところがメイズは、あきらめません。俊足を飛ばし、これを中継していたNBCラジオ局のアナウンサーが興奮気味の口調で中継する中、背走の体制のままで懸命にこの打球を追っていって、440フィートと書かれているフェンスの前で見事、ポケットキャッチしました。
     するとアナウンサーは興奮、絶叫しまくり、信じられないと連発。このすばらしいプレイに対して「THE GREATEST CATCH」と賛辞の言葉を連呼し、そのフレーズが後世に語り継がれることとなったのです。

    ◆ AFTER ”THE CATCH”

     しかし、ヴィックの打球がメイズの美技に阻まれたとはいえ、この間に2塁ランナーのドビーは3塁へと進塁。ここでジャイアンツはリドルに代わり、クローザーのグリッソムを投入したものの、代わり端、左打者で代打に出たデール・ミッチェルに四球を与え、1アウト満塁。相変わらずジャイアンツのピンチは続きますが、続く代打で左打者のポープは見逃しの三振、8番・ヘガンもレフトフライに終わり、ジャイアンツは辛くもピンチを脱しました。
     一方ジャイアンツはその裏、レモンのワイルドピッチなどで2アウト3塁のチャンスを迎えたものの得点出来ず、試合は2−2のまま延長戦を迎えます。

     10回表。インディアンスは先頭バッターのワーツがこの日4本目のヒットとなる2ベースを放ち、代打のミッチェルの打順に入ってショートの守備についたサム・デンテがバントでワーツを3塁へと送ると、代打に出てからそのままライトの守備についたポープが敬遠され、1アウト1・3塁と再び、勝ち越しのチャンスを迎えます。
     しかし、先発キャッチャーだったヘガンの代打・グリンが三振に倒れてツーアウトになると、監督は、代打を送らずに、熱投を続けていたレモンの続投を決断。レモンはファーストライナーに討ち取られ、この回もインディアンスはチャンスを逃したのでした。

     その裏、ジャイアンツは1アウトから4番のメイズがフォアボールを選ぶと、続くトンプソンもフォアボールを選び、1アウト1、2塁のチャンスをつくります。するとジャイアンツはここで、この年、164打数56安打15ホームランをマークした代打の切り札、ダスティ・ローズを6番のモンテ・アーヴィンの代わりに送り出します。
     ローズは見事期待に応え、熱投を続けてきたレモンの投じた初球を叩き、ライトスタンドへと放り込みました。サヨナラ3ラン。この初戦はこのように、ジャイアンツが先勝しました。

     するとその後、ジャイアンツは勢いに乗り、4勝ストレートでインディアンスを寄せ付けず、1933(昭和8)年以来21年ぶりにワールドチャンピオンの座を掴み取ったのです。
     もしもワーツがあのとき、ホームからセンターまで144メートルという異常に深いポロ・グラウンズではなく、シカゴ・カブスの本拠地であるリグレー・フィールドや、ニューヨーク・ヤンキースの本拠地であるヤンキースタジアムであの打球を放っていたのであれば、打球はスタンドインし、ゲームの流れも変わっていたかもしれません。勿論、後世にまで語り継がれているメイズのスーパープレイも、見られなかったことでしょうね。

    ◆ スコア(1954年9月29日 ワールドシリーズ 第1戦)

     インディアンス 200 000 000 0┃2
     ジャイアンツ  002 000 000 3┃5x

    【イ】レモン●
    【ジ】マグリー−リドル−グリッソム○

    【HR】ローズ(1号・3ラン)
    【時間】3時間11分
    【観衆】52751人
    【球場】ポロ・グラウンズ

    ◆ 予告

     さて、次回の「19XX」は、両チーム合わせて49得点を挙げた大打撃戦をご紹介して参ります。
     ではまた来月お会いしましょう。~(=^‥^)/~~~またニャ!



     第10回 VOL.10 1922年 The MOST-RUNS


     こんにちは、shinorarです。日本プロ野球は2月1日よりスプリングキャンプが始まりました。一方、メジャーリーグも2月20日頃から、本格的に動き出します。

     さて、日本プロ野球における1試合の最多得点は1939年4月6日、阪急ブレーブスが記録した32点、両チームでは1950年3月16日の西鉄クリッパーズ21−14東急フライヤーズ戦の35点が最高です。
     一方、メジャーリーグはその上を行ってます。いつもはスコアを最後に載せているのですが、今回は最初にご紹介します。

    ・1922(大正11)年8月25日 シカゴ・カブス−フィラデルフィア・フィリーズ

     フィラデルフィア 032 130 086┃23
     シカゴ      1100 1401 00X┃26

     ご覧のように、両チーム合わせて51安打(フィリーズ26本、カブス25本)、実に49得点を挙げ、それから80年以上経った現在もメジャー記録として残っています。
     またその他、この試合において、以下の項目もメジャー記録となっています。

    1)チーム打席 フィリーズ 66打席
    2)試合総打席数 125打席
    3)1チームで1得点以上記録した選手 13選手(フィリーズ)
    4)2チームで1得点以上記録した選手 23選手

     試合はご覧のように、シカゴが序盤で10点、14点を奪い、4回を終わった時点で25−9と大量リード。特に4回では、打者が3順するほどの猛攻を重ねました。
     一方終盤8回には、19歳のウーエル・ユーバンクス投手がカブス側のピッチャーとしてプロ入り2回目の登板を果たしたのですが、フィリーズ打線に火がつき、10安打、4四死球を重ねて8点を返し、17−26とほんの少しシカゴに迫りました。

     因みに2/3イニングで8失点を重ね、ノックアウトを食らったユーバンクスは、この試合を最後に、以後メジャーで登板することがありませんでした。
     そして、TOTAL BASEBALL第8版で彼の記録を調べたところ、以下の記録が掲載されています。
    登板2 0勝0敗 1回2/3 被安打5 四死球4 失点9 自責点5 防御率27.00

     さて、終盤に入り、打線に火がついたフィリーズは9回に入っても勢いが衰えることなく、シカゴの5番手タイニー・オズボーンから5本のヒットを重ね、23−26と3点差まで詰めより、なおも2アウト満塁。ここでフィリーズはこの試合3安打を放った4番、ベヴォ・ルブールヴォー。現在のプロ野球であればおそらくは投手を換えるところなのでしょうが、リリーフという言葉がない当時のメジャーの状況もあって、オズボーンは続投。そして、ルブールヴォーを内野フライに仕留め、そのまま逃げ切りました。

     両チーム49得点を挙げた大打撃戦にもかかわらず、試合時間はわずか3時間1分。現在のプロ野球であれば軽く6時間を超える試合でしょう。
     因みにシカゴは、1試合の最多得点(36)を1897年に記録しています。打ち合いも面白いでしょうが、ここまで得点を重ねると、見てる観客は飽きてしまうでしょうね。

    【参考文献】
    ○TOTAL BASEBALL 8TH EDITION
    ○The 100 Greatest Baseball Games of the 20th Century Ranked

    ◆ 予告

     さて、来月は8時間6分に及んだあの試合をご紹介してまいります。皆さんもご存知の選手が登場しますよ。来月の「メジャーリーグ19XX」をどうぞお楽しみに。
     ではまた来月お会いしましょう。~(=^‥^)/~~~またニャ!



     第11回 VOL.11 1983年 It Spends 753Pit to be over.


     こんにちは、shinorarです。
     突然ですが、日本プロ野球における最長時間はどの試合かご存知でしょうか。
     正解は、1992年9月11日に甲子園で行われたタイガース−スワローズ戦の6時間26分です。タイガース・八木の打球をめぐり40分試合が中断するなど、延長15回の末、4−4の引分で幕を閉じました。
     試合終了時刻が0時26分。フジテレビのプロ野球ニュースも最後まで放送できなかったオチがついたのです。
     スワローズはこの約3週間後のカープ戦でも、6時間1分の激闘を経験しました。

     日本のプロ野球にはイニングに限りがある影響か、試合時間がホントに長いですよね。無制限一本勝負に変えたほうが、案外試合時間が短くなると期待してるのですが・・・。

     さて一方、お隣メジャーリーグにおいては、実に8時間を超える試合がありました。録画でしたが、私もプロ野球ニュースで取り上げた事を鮮明に覚えています。
     そこで今日の「19XX」は、8時間を超える試合となった1981年、5月8日のホワイトソックス−ブリュワーズの試合へと皆様をご案内致します。

    ◆ サスペンデッドゲーム

     この日ブリュワーズ・サットン、ホワイトソックス・ファーロンの先発で始まった試合は、終盤8回まで1−1の接戦となりました。
     そして9回表、ブリュワーズは2点を勝ちこし、その裏には、カイゼルひげで有名なリリーフエースのローリー・フィンガースを投入しましたが、このフィンガースが救援に失敗。2点を返され、試合は3−3の延長戦に入りました。
     しかし、両チーム共に決定打に欠き、午後7時30分に始まった試合は17回まで進むも、3−3の同点のまま、ア・リーグ規定により(午前1時以降は新しいイニングに入らないという規定)サスペンデッドゲームとなりました。

    ◆ 翌日、試合再開

     日が明けて再開された試合は21回表、2アウトながらもランナーを2人貯めたブリュワーズは、後に近鉄バファローズでもプレーすることになるベン・オグリビー外野手の3ランで3点を勝ち越しました。
     しかし勝負を諦めないホワイトソックスもその裏3点を奪い返し、2日がかりの大熱戦はいったいいつになったら終わるのか、誰にもわからないゲームとなったのです。

     しかし25回裏、ハロルド・ベインズ外野手が、ブリュワーズのチャック・ポーター投手から投じられた、この試合通算の753球目を捕らえた。打球はライトスタンドへ消え、ホワイトソックスが7−6でサヨナラ勝ち。球史に残る激闘は、ようやく終止符を打ったのでした。
     この試合は途中で中断されたものの、試合時間はトータルで実に8時間6分となり、これがメジャー史上最長の試合時間となっています。
     また両チームが戦った25回というイニング数も、1920年5月1日に行われたブルックリン(現ロサンゼルス)・ドジャース対ボストン(現アトランタ)・ブレーブス戦の26回に次ぐ、最多記録となっております。

     なお、9日に日を改めて続行された試合は、当初から予定されていた同カードに先立って行われましたが、最後の回に投げて勝ち投手となった当時39歳の大ベテラン、トム・シーバー投手はなんと次の試合でも勝ち、「1日2勝」の荒稼ぎをしたのでした。

    ◆ スコア 1981年5月8日 ホワイトソックス−ブリュワーズ

     ブリュワーズ 000000 102000 00000
     シカゴ    000001 002000 00000

     (17回終了、一時中断。9日再開)

     ブリュワーズ 000000 00 ┃7
     シカゴ    000000 01X┃8

    【勝】 トム・シーバー
    【負】 チャック・ポーター
    【HR】 オグリビー(2号3ラン)、ベインズ(2号ソロ)
    【試合時間】 8時間6分(メジャー記録)

    ◆ おまけ・・・

     1日中試合をしていたという意味では、1964年5月31日にシェイ・スタジアムで行われた、ニューヨーク・メッツ戦対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦も凄いです。
     この日は両チームによるダブルヘッダーが行われたのですが、第1試合、ジャイアンツがメッツを5−3で破ると、第2試合はナ・リーグ史上最長となる7時間23分の超ロングゲームとなり、試合は延長23回の末、ジャイアンツが8−6で連勝。
     2試合トータルでの時間は実に9時間52分となりました。これだけしんどい思いをしながら、結局この日1勝もできなかったメッツの選手たちは、気の毒と言うほか、ないですね。

     さらにマイナーリーグでは、1981年4月18日に行われたポータケット・レッドソックス(ボストン・レッドソックス傘下)−ロチェスター・レッドウィングス(ボルティモア・オリオールズ傘下)戦の延長33回、試合時間8時間25分というとてつもない記録があります。
     この時は、日付が変わって翌19日の午前4時過ぎまで行われた後、一時中断。2か月後の6月23日に試合が再開され、ポータケットが3−2で勝利を収めています。実はこの試合に、後に殿堂入りを果たしたカル・リプケン、首位打者を5回獲得したウェイド・ボッグスの両内野手が出場していたのですが、リプケンはマイナー時代に既にこんなタフな試合を経験していたからこそ、メジャー史上最長の連続試合出場記録を達成できたのかもしれないですね。

    ◆ 次回予告

     さて、次回の「めじゃーりーぐ19XX」は、2005年に野球殿堂入りを果たしたある選手のエピソードを中心に、ご紹介して参ります。次回もどうぞお楽しみに。
     では、また来月お会いしましょう。ヾ(*'-'*)マタネー♪



     第12回 VOL.12 1988年 Dr."ZERO"


     こんにちは、shinorarです。
     2004年、ホワイトソックスでメジャーデビューを果たした高津投手は中継ぎ投手として24試合連続無失点を記録する大活躍。シカゴ市民から「ミスターゼロ」の称号をもらいました。
     ただ、私自身がメジャーに関心を抱いてからゼロという称号を投手につけたのを聞いたのは、1988(昭和63)年、ドジャースで活躍したオーレル・ハーシハイザー以来です。決して高津投手がはじめてというわけではありませんでした。
     そこで今回の「19XX」は高津投手の快進撃を記念して、これが続くことを祈りながら、ハイシハイザーが59イニング連続無失点の大偉業を成し遂げた1988年を振り返ってまいります。

    ◆ 1988年8月30日、伝説が始まる

     この8月30日、ロサンゼルス・ドジャースの先発投手としてマウンドに上がったオーレル・ハーシハイザー4世は、モントリオールでの対エクスポス戦の5回裏、ティム・レインズ、デーヴ・マルティネスに連続タイムリーを喫し2点を失いましたが、6回以降はヒット1本、無失点に抑え、この年18勝目を挙げました。
     すると中5日置いた9/5の対アトランタ・ブレーブス戦では、被安打4、奪三振8で完封勝利。
     続く9/10の対シンシナティ・レッズ戦では被安打7を与えたものの、何とか無失点に抑え、20勝目を挙げたのです。

     その後9/14のドジャースタジアムで行われた対ブレーブス戦では、マーラーとの投げあいで9回表まで0−0。しかし9回裏、マイク・マーシャルのタイムリー2ベースでドジャースがサヨナラ勝ち。この試合でも9回無失点に抑え、3試合連続完封勝利。
     9/19のアストロドームでの対ヒューストン・アストロズ戦では、ノーラン・ライアンから7回表に挙げた1点を守りきり、2試合続けて「1−0」の完封勝利。
     9/23の対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦は中3日で登板。7回まで両チーム無得点で迎えますが、8回表、ミッキー・ハッチャーの3ランでドジャースが均衡を破る一方、ハーシハイザーは8回以降も無失点に抑え、5試合連続完封。連続無失点記録も49まで延ばしました。

     因みに日本プロ野球界で5試合以上の連続完封勝利を挙げた投手は、1943(昭和18)年、6試合連続完封勝利を挙げた藤本英雄(ジャイアンツ)、1962(昭和37)年、5試合連続完封勝利を挙げた小山正明(タイガース)の2人しかいません。

    ◆ 前人未到の大記録へ

     ハーシハイザーのシーズン最後の登板は9月28日、ジャック・マーフィー・スタジアムでの対サンディエゴ・パドレス戦。この試合10回連続無失点なら新記録達成となったわけでしたが、無失点に抑えて、かつドジャース打線も得点せずに延長戦に突入できる確率は非常に低かったわけですが、それが現実として起きようとは試合前、誰が予想したでしょうか。
     しかしこの日、パドレス先発のホーキンスとの投げあいは、9回を終了しても0−0で決着が着かず、試合はついに延長戦へと突入しました。

     10回表、ドジャースは2アウトランナー3塁と先制のチャンスを迎えましたが、得点ならず。一方その裏のパドレスは、ウィンの振り逃げで先頭打者が1塁に出ます。
     その後パドレスは、バント、内野ゴロ、敬遠などで2アウトランナー2・3塁。ハーシハイザーから「1点」を取る絶好のチャンスを迎えますが、代打・モアランドはライトへと打ち上げ、得点奪えず。
     この瞬間ハーシハイザーは、1968(昭和43)年にドジャースの先輩、ドン・ドライズデールが樹立した58回2/3のメジャー記録を、20年ぶりに塗り替えました。しかもこの日、解説者として球場にいたドライスデールの目の前で、この記録を達成したのです。そして先発ホーキンス、ハーシハイザーの投げ合いは、この10回で幕を閉じたのでした。

     ちなみにこの試合はその後、16回まで続き、16回裏ペアレントの2ランでパドレスがサヨナラ勝ちを収めた事を付け加えておきます。

    ◆ 1988年 9月28日 パドレス−ドジャース戦 ランニングスコア
      観客人数 22596人

     ドジャース 000000000 0000001┃1
     パドレス  000000000 0000002┃2x

    ○ライパー 3勝
    ●ホートン 1勝1敗
    HR    ペアレント6号2ラン
    試合時間  4時間24分

    ◆ 多彩な球種

     59イニング無失点の期間中、四球はわずか11、三振も38。シンカーを武器とし、今ではメジャーとなっているチェンジアップ、フォーシーム、ムービングファストボールを巧みに使い、内外角に投げ分けたハーシハイザー。
     2005年現在のメジャーリーグにおける最強スラッガー、ボンズと異次元で対戦出来るのであれば、1000ドル払ってでも観て見たいものですね。



     第13回 VOL.13 1920年 ホントにあった怖い出来事


     2005年、下手投げ投手として、マリーンズ渡辺投手が10勝を挙げる活躍を見せています。
     かつて日本では、杉浦忠(通算187勝)、秋山登(193勝)、足立光宏(通算187勝)、皆川睦雄(221勝)、そして山田久志(284勝)と下手投げの大投手・好投手を輩出していましたが、最近は下火になっていました。

     一方、メジャーリーグでもロッキーズに在籍しているキム・ビュンヒュンが下手投げ投手として奮闘していますが、抑えとしてアリゾナ・ダイアモンドバックスで鮮烈なメジャー1年目のシーズンを2001年に送ったあとは、本来のクローザーのマット・マンテイが復帰したこともあり、いくつかのトレードを経験し、先発でいくのかブルペンに入るのかということで、かなり右往左往している感じを受けます。がんばってほしいですね。

     ちなみにメジャーリーグでは、リリーフ投手に下手投げが多く、1970年代後半にはケント・テカルビー、80年代にはダン・クイゼンベリーなどのリリーフエースが活躍しましたが、彼らが頭角を現す以前、メジャーリーグでは、アンダーハンドの投手はしばらく、出現していませんでした。それは、今から85年前の1920年に起きた、ある「事件」がきっかけとなっています。

    ◇ メジャーリーガーの悲劇

     1920(大正9)年8月16日、1位インディアンス、2位ヤンキースの首位決戦がポログラウンドで行われました。
     ヤンキースの先発はアンダースローのカール・メイズ。4回を終わり、インディアンスが3−0のリードで5回を迎えると、先頭バッターのレイ・チャップマンはバッターボックスに入り、いつものように、つま先をホームプレートにくっつけんばかりにしたクラウチングスタンスで構えました。
     しかしこのとき、メイズが投じた1球が、チャップマンの左のこめかみに命中。ガツン、という音がスタンドの中に聞こえたような感じがして、観客は頭をよける様にしながら息を呑みました。そしてチャップマンは、まるで一発の銃弾を受けたように、その場へと倒れたのです。
     チャップマンは二人のチームメイトに抱えられてクラブハウスへ担ぎ込まれると、すぐさま病院へと移送されました。

     そして翌日、「チャップマン死亡」のニュースが全米に流れました。
     メイズの投球がチャップマンのこめかみに当たった為、チャップマンは激しい脳内出血を起こし、二度に及ぶ手術にもかかわらず、助からなかったのです。あまりにも容体の悪化が早かった為に、妻が最期を見取る事ができなかったほどでした。

    ◇ メイズの悲劇

     すると、このチャップマン死亡事件をを受けた球界では、メイズ排斥運動が起きました。デッドボールによる死亡事故は初めての事であり、彼は業務上過失致死容疑で、警察から取調べを受けたのです。

     その後、メイズは無罪となりマウンドへと復帰した。しかし、復帰した彼を待ち受けていたのは、対戦相手ならびに観客から浴びせられる野次だったのです。「殺人鬼!」「人殺し!」・・・・。
     そんな中、メイズは精神力の強さを見せ、この年は26勝、翌年も27勝を挙げ、リーグ最多勝を獲得しました。すると今度は、

    「そもそも、あのアンダースロー自体が危険なんだ」

     と彼の下手投げ投法が問題となったのです。「俺は故意にぶつけたんじゃない」そういい続けた彼は、アンダースローを批判する声にも悠然と反論しますが、アンダースローそのものが禁止される事はなかったものの、メイズの主張もむなしく、彼の事件を機にメジャーリーグからアンダースロー投手は、急激に減っていったのです。

    ◇ 1920年8月16日 インディアンス−ヤンキース テーブルスコア

     インディアンス 010 210 000┃4
     ヤンキース   000 000 003┃3

    ◇ おまけ

     かつてヤンキースで活躍したベーブ・ルースもボストン時代(1914〜1919年)は主に投手として活躍し、94勝を挙げました。因みに彼もアンダースローであった事はあまり知られていません。

     では、8月にお会いしましょう。~(=^‥^)/~~~またニャ!


     第14回〜はこちら


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