ニグロリーグと愉快な仲間たち by MB Da Kidd

    第1回 ジャップ・ミカドとオール・ネイションズ 〜その1〜

    第2回 ジャップ・ミカドとオール・ネイションズ 〜その2〜

    WBC特別編 サン・ファン組のはなしとマーティン・ディーゴ



     第1回 ジャップ・ミカドとオール・ネイションズ 〜その1〜


     こんにちはMB Da Kiddです。


     前回までは来日したニグロリーガーたちの話を書きましたが、今回は逆に、日本からニグロリーグの前身となるチームに参加した、日本人初のプロ野球選手の話です。
     三神吾郎さん。早稲田大学出身の豪快な学生さんで、アメリカ留学時、大学野球のオフシーズンにオール・ネイションズという人種混合のチームに参加したのが、彼が日本人初のプロ野球選手となったいきさつになります。


     しかも、彼が参加したこの『オール・ネイションズ』というチームはすごくて、当時、メジャーリーグのどのチームとやっても、対等か、それ以上の成績をおさめられるという実力のあるチームでした。このチームについては後日ぼーる通信の本連載にて詳しく紹介しますが、のちに、ニグロリーグの名門中の名門チーム、カンサスシティ・モナークスへと進化を遂げているという花形チームだったのです。


     ちなみに日本初のプロ野球チームが誕生したのは1920年12月、押川清、河野安通志、橋戸信、中沢不二男、市岡忠男という、のちに野球殿堂入りする錚々たるメンバーによって立ち上げられた日本運動協会、いわゆる芝浦協会が最初で、しかも、リーグ組織という形式を採ったプロ野球となると、1936年、東京ジャイアンツ(現巨人)、大阪タイガース(現阪神)、大東京軍、名古屋軍、東京セネタース、名古屋金鯱軍、阪急軍の7球団によって結成された日本職業野球聯盟にまで遡らねばなりません。
     しかし、三神さんがオール・ネイションズに参加されたのは1913年。オール・ネイションズ自体が成立したのが1912年ですから、この三神さんの存在が、いかに日本の野球史において重要な意味を持つか、というのがおわかりいただけるでしょうか。



    ● オール・ネイションズとはいかなるチームか


     さて、三神さんご本人の話に入る前に、まず、オール・ネイションズとそのオーナーのJ.L.ウィルキンソン、ならびに当時のアメリカ野球事情について話しておきましょう。


     アイオワ州デモインのあるスポーツ用具店が、スポーツ用具販売促進のためにスポンサーになっていたチームがありました。ホプキンス・ブラザーズ。このチームは野球興行をしながら巡業してさまざまなところを回っていましたが、なかなかの強豪チームでした。
     ところがある日、このチームの監督が、チームの有り金すべてを持って、逃げてしまったのです。そしてチームは、資金難から消滅の危機にさらされることとなってしまいました。
     そこで、当時は選手の一人だったJ.L.ウィルキンソンが監督となり、このチームをまとめることとなったのです。ウィルキンソンは、同じスポーツ用具店が経営する女子野球チーム、ブルーマー・ガールズの運営手腕をすでに発揮していたと同時に、選手間の信頼も厚かったために、そういう顛末となったのでした。
     そしてウィルキンソンはそのうちに、ブルーマー・ガールズを手放し、ホプキンス・ブラザーズを再編成して、オール・ネイションズを結成します。1912年のことでした。


     このオール・ネイションズというチームには、ニグロリーグ界の大物投手のジョン・ドナルドソンやキューバ出身のホゼ・メンデス、ならびに、女子野球の鉄人で、球聖タイ・カッブを越えるともいわれた出場試合数を誇るキャリー・ネイションという選手がいました。
     またこのチームは、9つの異なった国籍の選手がいる、とも喧伝され、非常に民主的に運営されておりました。ウィルキンソンは2万5千ドルをかけてプルマン寝台車をつくり、ここで選手たちは寝食をともにし、全米各地を回ったのです。


     1912年は、非常に微妙な年であったといえます。メジャーリーグの方では球聖タイ・カッブが2年連続4割を打つ一方、観客をぶん殴るという暴力事件をも起こし、『大活躍』した年でした。1903年のワールドシリーズ再開から10年目でもあり、観客は大挙して白人メジャーリーガーのプレイを楽しんでいたのです。
     しかし一方で、モーゼス・フリート・ウォーカー(のちの連載にて彼のことは紹介しますが)以来、白人のプロフェッショナルリーグにて活躍した選手のいない黒人選手たちの間では、非常に不満が高まっておりました。
     彼らはカラード・ベースボール・クラブスというリーグを1890年以来結成してリーグ戦を行っていましたが、この年、さらに、カラード・インターカレジエイト・アスレティック・アソシエーションが結成され、のちの黒人野球選手の育成に大きく貢献する土壌が形成されてもいたのです。
     この年は、のちにカンサスシティ・モナークスへと進化するオール・ネイションズの結成とともに、1920年代のニグロリーグの隆盛へとつながる基礎ができた年でもあったのでした。


     次回は、ニグロリーグの歴史というよりは、当時、日本からアメリカに遠征を行ったチームの話を中心に、三神さんがアメリカに触れ、留学する顛末について紹介したいと思います。(2005.2.11.配信)


    【参考図書・web】


    ・『ジャップ・ミカドの謎』 佐山和夫著 文藝春秋 1996


    African Americans In The Sports Arena 〜Baseball〜



     第2回 ジャップ・ミカドとオール・ネイションズ 〜その2〜


    ● 早稲田大学野球部と三神吾朗


     こんにちはMB Da Kiddです。


     前回は簡単にオール・ネイションズの紹介をやりましたが、今回はアメリカに力点を置いた話ではなく、日本の球界に力点を置いた話になります。
     アメリカ話を期待されていた方々には申し訳ないのですが、よろしくおつきあいください。


     早稲田大学の野球部は、1901年に設立されました。1904年には一高(いまの東大)を破って名を上げ、その4日後には慶應を破り、その勢いを買って、1905年には初のアメリカ遠征へと出かけます。そして、この1905年の第1回アメリカ遠征以来、海外遠征をたびたび行うようになったのです。


     三神吾朗さんが、そういう日の出の勢いにあった早稲田大学野球部に入部したのは、1908年のこと。最初はピッチャーとして入団しましたが、当時の早稲田の投手陣は充実していたので、バッティングピッチャーとして、下積みの生活を送ることになります。
     素直な球筋でコントロールのよかった三神さんのストレートは、練習台にはもってこいだったのでした。


     しかし、彼のこの状況を見て、バッティングピッチャーだけじゃちょっとかわいそうなんじゃないの?と言い出す人がいたので、チームの面々が三神さんを外野の守備練習に参加させてみたところ、非常に華麗な身のこなしを見せたのでした。そこで、三神さんは外野手として、野手のキャリアをスタートさせることになったのです。


    ● 三神吾朗が参加した早稲田大学野球部の海外遠征


     1910年6月。早稲田大学はハワイ遠征へと旅立ちました。このときのメンバーは以下のとおり。


    ピッチャー 松田捨吉(関西学院)、大村隆行(明倫中)
    キャッチャー 山脇正治(早稲田中)、山口武(麻布中)
    ファースト 大井斉(水戸中)
    セカンド 原慧徳(郁文館中)、飛田忠順(水戸中、のちの穂洲)
    サード 伊勢田剛(札幌中)
    ショート 野々村納(盛岡中)
    外野手 小川重吉(早稲田中)、深堀政信(神奈川中)、三神吾朗(甲府中)、早川若造(郁文館中)
    マネジャー 西尾守一(北野中)


     この遠征の中で、三神さんはその才能を開花させます。たとえば対アメリカ海兵隊の試合では、フォアボールで出塁したあとに2盗、3盗と連続盗塁を決め、ホームに返ってきたりしていますし、ポルトガル・チームとの試合では、フォアボールでランナーに出ると、俊足を飛ばして一気にホームを突き、この試合の唯一の得点を記録して、早稲田の勝利に貢献します。
     この遠征の際の早稲田大学野球部の通算成績は、12勝12敗でした。


     続いて、1911年に早稲田は第2回のアメリカ遠征を行いますが、このときのメンバーは以下のとおり。


    ピッチャー 松田捨吉、大村隆行、山本正雄(早稲田中)
    キャッチャー 山口武、福永光蔵(早稲田中)
    ファースト 大井斉・キャプテン
    セカンド 原慧徳
    サード 深堀政信
    ショート 伊勢田剛、大町正隆(立教中)
    レフト 三神吾朗
    センター 小川重吉
    ライト 増田稲三郎(神奈川一中)、八幡恭助(神奈川一中)


     三神さんはレフトのレギュラーポジションを手に入れていました。53試合を戦い、戦績は17勝36敗。ですが、前年秋に招待したアメリカ中西部の最強チーム、シカゴ大学には、前年同様、一蹴されました。3試合を闘って3敗を喫しています。


    三神吾朗はなぜアメリカに?


     このシリーズは佐山和夫さんの『ジャップ・ミカドの謎』という本を参考にして書いていますが、三神さんがなぜアメリカ留学を思い立ったのか、ということについては、同著のP.214〜217にこう書いてあります。


     『三神吾朗氏が育ったままの村の姿があればいいが、そうでないというのなら、それはやめて、彼の母校に行くのがいいだろう。(中略)
     校門を過ぎて、中央玄関に向かって突き進んだときのことだ。私は立ちすくんだ。左側植え込みの中に、立派な石碑があり、その中に、<Boys, be Ambitious!>とあるではないか。(中略)
     三神吾朗がアメリカに渡った本当の理由が分かったような気がした。ボーイズ、ビ・アンビシャス!(少年よ、大志を抱け!)---。これだった。』


     最初これを読んだとき、私としては、何となく納得は行ったものの、どこかすっきりとしない、腑に落ちないものを感じました。そこで、大和球士さんの『野球五十年』の同時代の項を確認したところ、1910年秋に早稲田の野球部がシカゴ大学の野球部を招いた際、早慶の野球部がともにシカゴ大学と対戦し、慶應は3戦全敗したものの互角の戦いを展開したのに対し、早稲田は同じ3敗でも、9-2、5-0、15-4という大差をつけられて負けており、また、OBが稲門倶楽部チームを結成して試合を挑んでも11-2と大敗し、さらに現役も、8-4、20-0、10-2と大敗を喫したのでした。そして世評は早稲田よりも慶應の方が強い、という主張に傾き、この責任をとって飛田忠順をはじめとする4人の選手が現役引退に追い込まれていることを知りました。


     さらに、同じアメリカ遠征でも、慶應が29勝20敗1引分で遠征を終えており、前述の早稲田野球部の17勝36敗はこれに大きく劣る結果となったのです。
     慶應がこのように強かった理由は、人材が揃っていたことに加え、NYジャイアンツのシェファーならびにトムソンの両選手を招き、コーチを受けたことによります。


     そこで私が考えたのは、三神さんは個人的動機もさることながら、この当時の野球事情がかなり三神さんの反骨精神を刺激したのではないか、ということです。
     三神さんにかなり影響を与えた人物として、兄の八四郎さんという人物がいるのですが、このテニスの名手であった兄の口癖は、

     『何でも、外国人に負けているようではダメだ。俺は外国人にも勝てるという自信をつけるために、先ずテニスで彼らを負かしてやるんだ。』

     というものだったそうです。したがって、三神吾朗さんがこういう気概を持っていたところは間違いないのでしょうが、このシカゴ大学や慶應の野球部に対する反発はなかったのでしょうか。私としては、そこが気になるのです。


     ということで次回は、その私の疑念を考察すべく、三神さんが留学したノックス・カレッジ、ならびに、アメリカ中西部の当時の野球事情に迫っていきます。(2005.4.11.配信、この連載は後日、ぼーる通信の本連載として組みなおします。)


    【参考図書・web】


    ・『ジャップ・ミカドの謎』 佐山和夫著 文藝春秋 1996
    ・野球五十年 大和球士著 時事通信社 1955
    早稲田野球部の歴史(早稲田大学野球部公式サイト)



     WBC特別編 サン・ファン組のはなしとマーティン・ディーゴ


     読者のみなさまこんばんは。いま現在はWBCたけなわですが、このワタクシはニグロリーグおたくを自称しておりますので、どちらかといえば、日本や韓国、あるいはアメリカのいるアナハイム組ではなく、プエルトリコのサン・ファン組の試合の方がはるかに気になります。しかもワタクシはキャッチャーフェチですので、イヴァン・ロドリゲスとハヴィアー・ロペスという大物キャッチャー2人に、バーニー・ウィリアムスのいるプエルトリコに大きく肩入れしておりました。優勝候補だと思っていたので、敗退はちょっと残念なところであります(汗)


     もっとも、日本代表だけでなく、普段はご自分のひいきのチームの主力選手、たとえば、ミゲール・カブレラ選手(フロリダ・マーリンズ)とかオマー・ヴィスケール選手(SFジャイアンツ)、あるいはデーヴィッド・オルティス選手(ボストン・レッドソックス)に肩入れして、ベネズエラやドミニカを応援されている方々もおられることと思います。そして、いろいろとボブ・デヴィッドソン審判の”嵐を呼ぶ”数々の判定のこともあり、試合内容的には成功でも運営面の失敗の指摘が多数される状況にあるアナハイム組に比べ、こちらでは純粋に野球を楽しめるので、実をいうと私は、アナハイム組の試合はきちんと観ておりません。
     こちらは、普段からカリビアンシリーズをやりなれておりますし、歴史上もいろいろと大きなつながりがある地域ですので(キューバも含め)、大会運営面では、”はじめてのことから来る失敗”がないからこそ、トラブルが起こりにくいものと考えられます。


     さて、このサン・ファン組について私が肩入れするもうひとつの大きな理由は、このカリブ海諸国というのは、ニグロリーガーたちの末裔が切磋琢磨する地域であるということです。
     ニグロリーグとカリブ海地域には大きなつながりがありまして、たとえば史上最高の投手といわれるサッチェル・ペイジや史上最速選手といわれるクール・パパ・ベル、あるいは史上最高のスラッガーといわれるジョシュ・ギブソンといった選手は、ドミニカの当時の独裁者、ラファエル・トゥルヒーヨのチームに参加したことがありますし、また、ニグロリーグの強豪チームの中には、ニューヨーク・キューバンズというチームもあります。
     そして、ニグロリーグの名選手たちの中には、クーパースタウンの野球殿堂だけでなく、キューバ、ドミニカ、プエルトリコ、ベネズエラ、メキシコといった国々の殿堂入りしている選手もいるのです。
     つまり、有色人種の野球選手は、国内における有色人種経済第3の規模を誇る産業であったニグロリーグのみならず、活躍の場をカリブ海へと求め、そこでお金を稼ぎ、野球を楽しんでいたのです。
     メジャーリーグ・ベースボールの原点は"Have Fun!"(楽しめ!)ということだと思いますが、私は、そのルーツはニグロリーガーたちにこそあるのではないか、と考えています。だから、ニグロリーグが好きでたまらないのです。


     さて今日は、その中でも、いろいろなエピソードがあるのですが、一人のキューバ人選手を紹介します。


     マーティン・ディーゴ。このハンサムなキューバ黒人選手は、ニグロリーグ、メキシコ、キューバの3カ国を渡り歩いた”スーパー野球選手”です。
     この選手のどこがすごいのかというと、彼は豪速球投手でありながら、チームの4番を打つだけの長打力があり、しかも、セカンドと外野で強肩を披露して観客を魅了した、という技量の持ち主だったことです。その肩の強さは、あの伝説の*ロベルト・クレメンテに匹敵するほどすごかったといわれております。


    *ロベルト・クレメンテ

     ピッツバーグ・パイレーツの至宝、プエルトリコ出身。1955〜1972にかけて活躍、その鉄砲肩から放たれる送球は、ライフル・アームの異名をとった。3,000本安打を放ってシーズン終了後、ニカラグアへの救援物資を運ぶ飛行機の事故に巻き込まれ、死亡。通算打率.317、240本塁打を誇る中距離バッターであった。


     16歳のとき、まずはキューバのハバナ・スターズでそのキャリアをスタートさせたディーゴは、その3年後には、ニグロリーグのイースタン・カラード・リーグのホームラン王を獲得するまでに成長し、そのころには4割近くの打率を残すようになります。そして、その5年後にはピッチャーとしても本格的に活躍するようになり、ニグロリーグのオフシーズンに投げていたベネズエラのリーグでは、ノーヒットノーランも達成し、1938年ではメキシカン・リーグにて防御率0.90、18勝、打率.387という化け物のような数字を残します。
     ちなみにニグロリーグでは、ワシントンDC近くにあるホームステッド・グレイズや、ニューヨーク・キューバンズなどといった強豪チームで活躍し、そのほか、メキシコにても活躍しております。その野球能力は同時代の野球人に高く評価され、ニューヨーク・ジャイアンツ(現SFジャイアンツ)監督のジョン・マグローや、セントルイス・カーディナルスを中心に活躍した”元祖ビッグ・キャット”ことジョニー・マイズといった人たちから、”野球史上最も偉大なる才能”と賞賛されています。


     ただ、そんなディーゴもやはり人の子でして、1945年には選手としてのキャリアを終えるのですが、その後はメキシコ、ベネズエラ、そしてドミニカのチームの監督を歴任、のちにはカストロ政権のスポーツ大臣の座まで上りつめました。1971年没、享年66。”エル・マエストロ”ことキューバ史上最高の野球選手であるマーティン・ディーゴは、自国のキューバや活躍したメキシコだけでなく、クーパースタウンの野球殿堂にもエントリーする栄誉を授かったのです。


     いまディーゴが生きていたら、このWBCの盛り上がりを何と思うでしょう?そして、ボブ・デーヴィッドソン審判の誤審を。


     『いや、あんなの、オレたちの時代からあったことだよ。アメリカはフェアじゃない、独善だとかいうけど、そんなのわかりきってることだろ?俺たちが受けたことに比べりゃ、いまの選手は恵まれてる。それより野球を楽しもうぜ。な?』


     こう言って、ひとつウィンクをするかもしれません(笑)


    【参考文献・web】

    Black Baseball 〜A History of African-Americans & the National Game〜
    Kyle McNary著 PRC


    The Negro League Teams - NLBPA


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