ニグロリーグと愉快な仲間たち by MB Da Kidd

    The Introduction to the world of "Black Baseball"

    第1回 ニグロリーグのあけぼの 〜その1〜

    第2回 ニグロリーグのあけぼの 〜その2〜

    第3回 ニグロリーグのあけぼの 〜その3〜

    第4回 ニグロリーグのあけぼの 〜その4〜

    第5回 ニグロリーグのあけぼの 〜その5〜



     The Introduction to the world of "Black Baseball"


     読者のみなさま、今回より、”ニグロリーグと愉快な仲間たち”のぼーる通信版の連載をはじめたいと思います。


     このニグロリーグに関しては、19世紀後半から1950年代に至るまでのほぼ半世紀、アメリカ・メジャーリーグの裏側のアメリカ野球史を形作ってきたリーグといわれています。
     もしもヒストリー・チャンネルをスカパーやケーブルTVでご覧になれる方々がいらっしゃいましたら、本日1/16(月)より複数の枠でアメリカ・メジャーリーグの19世紀末の時代から現代に至るまでの100年間程度の球史についてご覧になれますので、これを録画された上で、ウィリー・メイズ、ハンク・アーロン、オジー・スミス、アンドレ・ドーソン、エディ・マレー、トニー・グウィン、そしてバリー・ボンズの先駆者にはどういう選手のみなさんがいたのかということを、この連載を通じて知っていただき、ぜひ比較対照してご覧いただければ幸いです。また、私自身の過去の連載と比較対照させていただいてもけっこうです。


     さてこのニグロリーグ、その実力はいかほどだったのでしょう?これについては、次のような記録があります。


    “184勝84敗“


     これが、白人メジャーリーガーのいるチームと、ニグロリーガーのいる全チームの対戦成績です。ニグロリーガーは全268試合のうち、100勝ち越している。当時アメリカの民主主義の象徴的スポーツであり、国技でもあった野球において、ニグロリーガーたちは、これだけの成績を残したのです。


     この対戦結果については、“いや、あのとき、メジャーリーガーたちは本気ではなかったのだ”とか、“あの試合は所詮、エキシビジョンなんであって、対戦成績をあれこれ問題にしてもほとんど意味がないんだ”とマジメに論じる野球史家もいるのですが、これらが詭弁に過ぎないのは、この数字がすべて物語っているでしょう。
     たとえば日米野球のように、3連敗したあとに4連勝して実力をみせつけた、イチロー選手がいたチームだったときの2002年度日米野球のようなケースなら、メジャーリーガーの方が日本プロ野球よりも実力が上なのは明らかなので、3連敗したことにつき、本気ではなかったんだ、という言い訳も成り立つでしょうが、この場合は268回の対戦のうち100負け越しているのですから、こういう言い分が成り立たないのは明らかです。


     では次回、このニグロリーグの歴史について、簡単に時代を分けながら、どの時代には何があったのかということを、全体的に、簡単に俯瞰していきましょう。


     第1回 ニグロリーグのあけぼの 〜その1〜


     読者のみなさまこんにちは。前回はBlack Baseballことニグロリーグの簡単な紹介をしましたが、今回はそのスタートラインの話をしましょう。


     アメリカに多くのベースボールチームが登場してきたのは1850年代後半。そして、初のプロチーム、シンシナティ・レッドストッキングスが登場した1869年には、チーム数は1,000を越えるまでになっていました。
     このころには南北戦争が終わっていましたから、公式に奴隷階級から開放されたアメリカ黒人は、北部のセミプロのトップチームを中心に、選手としてちらほらと登場するようになります。また、それ以前から野球シーンが盛り上がっていたニューヨークでは、1850年代からアフリカン・アメリカンがときどき選手として登場するようになり、1859年には、球史初のアフリカン・アメリカンのみの編成のチーム同士の試合が行われています。
     その中でも、アフリカン・アメリカンとしてはじめてメジャーリーグのレベルでプレイしたとされているのが、モーゼス・“フリート”・ウォーカーです。1882年当時、ウォーカーはのちに野球殿堂入りすることになるエイドリアン・“キャップ”・アンソン率いるトレド・ブルー・ストッキングスのキャッチャーをやっていました。そしてそれ以後、このブルーストッキングスが以前の私の連載にも登場した、のちに現ナショナル・リーグに吸収合併されるアメリカン・アソシエーションに参加すると、モーゼスの弟のウェルデイがチームに加わります。2人目のアフリカン・アメリカンのメジャーリーガーの誕生です。このようにウォーカー兄弟はそれぞれ、1番目・2番目のアフリカン・アメリカンのメジャーリーガーとなったのでした。


     しかし1887年、いわゆる“カラーライン”というものがひかれ、ジャッキー・ロビンソンにいたるまで、アフリカン・アメリカンはメジャーレベルではプレイできなくなります。
     ちなみに私がここでいうメジャーレベルとは、プレイの質のことではありません。リーグの組織としての質のことです。この当時、メジャーリーグと考えられている組織のほかにも、プレイのレベルの高いチームは数多ありましたし、その中でも、人種混合の強豪チームも、当時のアメリカにはたくさんありました。しかしながら、リーグとしての体裁、統一性、経営といった問題などをクリアできていなかったチームが多く、できては潰れての繰り返しだったので、ナショナル・リーグとアメリカン・リーグは、人種混合のチームをすべて、メジャーレベルではなく、マイナーレベルのチームだと認定したのです。おそらくその理由としては、自らの権威づけのために一線を画すことでブランド価値を高め、リーグ経営の引き締めを図ったのでしょう。
     当時はさまざまなチームやリーグが台頭し、野球熱は全米を席巻していたのですが、1年どころか1ヶ月も経営的にもたないチームが多かった事情もあり、プロフェッショナル・リーグとして経営を維持していくのは極めて困難だった状況も想像されます。そんな中、カネ払いのいい白人金持ち観客をより多く球場に呼び、経営の維持を図るには、道義的には極めて大いに問題があるにせよ、このようなやり方が当時の合理的経営判断だったのではないかと私は考えています。


     そしてその1887年、前述の“キャップ”・アンソンが率いるシカゴ・ホワイトストッキングスが、アフリカン・アメリカンの左腕ピッチャーであるジョージ・ストーヴィーを先発に立てた、イースタン・リーグと呼ばれるセミプロリーグに所属する、ニューアークとの試合の決行を拒否します。そこで、当時は絶大な人気を誇っていたアンソンのチームとの試合を拒否されると興行的には大きな影響が出ることから、ニューアークは白人投手を先発に立て、試合を成立させました。
     するとこのアンソンのなした行動の結果、ほかの白人スター選手も、彼のあとに続きます。彼らはアフリカン・アメリカンの選手との対戦を拒否し、人によっては、彼らと写真に一緒に映ることすら拒否するようになります。これは私の推測にすぎませんが、当時、チームよりもスター選手の方がはるかにステイタスが高く、スター選手によって観客を球場に呼んでいた事情から察すると、スター選手自身も、より自身の懐を潤すために、アフリカン・アメリカンなどをはじめとする低所得者層の人間を球場に呼んでも彼らはカネ払いが悪いだけだから儲からない、という判断があって、当時の第一人者であったアンソンを皮切りに、スター選手がこれに続いたものと思われます。


     次回は、19世紀末のプロ・セミプロチームの経営事情についてさらに軽く触れ、ニグロリーグ誕生の事情に迫っていきます。


    【参考資料・web】


    ・Black Baseball 〜A History of African-Americans & the National Game〜
    by Kyle McNary, PRC publishing Ltd.,
    The History of Keokuk Baseball Web Site



     第2回 ニグロリーグのあけぼの 〜その2〜


     読者のみなさまこんにちは。前回は、キャップ・アンソンによっていわゆる“カラーライン”がひかれた経緯をお話しましたが、その際にちょっと触れ忘れていたことがありますので、今回はその話からです。


     アメリカには、別名ブラックコードと呼ばれる、ジム・クロウ法というものがありました。これは、1723年にヴァージニア州で制定されたものが最初ですが、有色人種、とりわけアフリカ系アメリカ人、いわゆる黒人が白人と同じことをするのを禁止、あるいは制限するための法律です。たとえば黒人が白人と同じ井戸を使ってはいけないとか、馬車や鉄道といった交通機関にて、席を別にすることを規定していました。


     しかしながら南北戦争後は、連邦政府がこのジム・クロウ法の改正に乗り出します。そして、合衆国憲法に基づき、第13・14・15回の改正を行い、市民法も改正して、アフリカ系アメリカ人に、アメリカ市民として生きていくための権利を保障する体制を整えました。


     ところがこの一連の改正運動は、1877年でストップします。そして、南部を中心に、この一連の改正運動をなきものにするための法律が州単位で次々と可決されていき、さらに1883年には連邦最高裁が、連邦政府は州政府の可決した法律を却下することはできない、という判決を出し、ジム・クロウ法改正運動の形骸化はどんどん加速していきます。
     するとそんなアメリカ社会の“反動化”の中、黒人差別は激しくなって行き、アフリカン・アメリカンの選手が在籍する、あるいは、アフリカン・アメリカンの観客が押し寄せるチームから、白人の観客が消えていきます。キャップ・アンソンの“カラーライン”は、そんなアメリカ社会の状況から必然的に引かれたものでありました。
     そこで、アフリカン・アメリカンを中心に、有色人種混成チームは、独自の巡業体制を整え、小さな町をコツコツと回って興行を行う、というやり方を確立していきます。


     しかし、その財政基盤は弱いものでした。前回もご紹介したとおり、リーグとしての体裁、統一性、経営といった問題などをクリアできていなかったチームが多く、できては潰れての繰り返しだったので、到底、当時のメジャーリーグであったナショナル・リーグやアメリカン・アソシエーションには、かなわなかったのです。
    そんな状況の中、球史初の、アフリカン・アメリカンの選手中心の偉大なチームがあらわれます。それがニューヨーク・キューバン・ジャイアンツです。そしてこのニューヨーク・キューバン・ジャイアンツを中心に、リーグ・オヴ・カラード・ベースボール・クラブスが1887年に誕生します。参加したチームは、

    ●ニューヨーク・キューバン・ジャイアンツ
    ●ボストン・レゾルーツ
    ●ニューヨーク・ゴーラム
    ●フィラデルフィア・フィティアンズ
    ●ワシントン・キャピタル・シティーズ
    ●ピッツバーグ・キーストーンズ
    ●ノーフォーク(ヴァージニア)・レッドストッキングズ
    ●ロード・ボルティモアズ
    ●シンシナティ・クラウンズ
    ●ルイヴィル・フォールシティーズ

    の10チームで、この中でもキューバン・ジャイアンツとキーストーンズが、初年度の1、2位に輝いています。


     次回は、そこにいたるまでのアフリカン・アメリカンのチーム登場の背景、ならびに、いくつかのアフリカン・アメリカンのチームの紹介を行ったのち、ニューヨーク・キューバン・ジャイアンツについて触れていきます。


    【参考資料・web】

    Black Baseball 〜A History of African-Americans & the National Game〜
    by Kyle McNary, PRC publishing Ltd.,

    Negro League Baseball-USAPedia.com



     第3回 ニグロリーグのあけぼの 〜その3〜


     読者のみなさまこんにちは。前回はカラーラインが引かれたアメリカ社会の背景、ならびにリーグ・オヴ・カラード・ベースボール・クラブス登場の話までをやりましたが、今回はそこからちょっとさかのぼって、いくつかのアフリカン・アメリカンのチームの話をしておきたいと思います。


     リーグ・オヴ・カラード・ベースボール・クラブスが誕生したのが1887年。そして、キャップ・アンソンがカラーラインを引いたのも同じ1887年ですから、おそらくこれらの事象を考え合わせて、ニグロリーグが生まれてきたのはカラーラインが引かれた結果である、と主張する人もいるのですが、私としてはその前に、ジム・クロウ法改正の形骸化による、アメリカ社会の反動化とアフリカン・アメリカンに対する差別の激化という問題が横たわっていると考えております。
     したがって今回は、それを裏づけるために、1860年代のアフリカン・アメリカンのチーム事情について、触れていきます。


     1846年にニッカボッカーズ・ルールによるはじめての試合が行われて以来、野球がレクリエーションとして急速に全米に普及していったのは、以前私のメジャーリーグ初期の連載でもすでに述べたとおりですが、1857年にナショナル・アソシエーション・オヴ・ベースボール・プレーヤーズというリーグが誕生し、より細かいルールが策定されていった状況の中、この連載の第1回で軽く触れたように、その2年後の1859年11月15日火曜日には、ジャマイカのヘンソン・クラブと名称不明のチームが対戦しております。
     そして1865年の南北戦争終了直後までには、東部や中部大西洋岸各州にて、アフリカン・アメリカンの野球チームが続々と誕生します。元兵士を集め、名の知れた将校たちがつくったチームには、

    ●ジャマイカ・モニター・クラブ
    ●アルバニー・バチェラーズ
    ●フィラデルフィア・エクセルシオールズ
    ●シカゴ・ユニークス

     といったチームがあり、これらのチームは、お互いに対戦したり、あるいは、ほかのチームとの対戦を行うようになります。


     1860年代末には、そのメッカはフィラデルフィアになります。2人の元クリケット選手、ジェイムズ・H・フランシスとフランシス・ウッドは、前回にも名前が出てきたフィラデルフィア・フィティアンズを創設。プロモーターのオクタヴィウス・カットのもと、大きく売り出し、カットはフィティアンズのナショナル・アソシエイション・オヴ・ベースボール・プレイヤーズ参加を目論見ますが、これはナショナル・アソシエイション側が、有色人種の選手が一人でもいるチームのリーグ参加は認めない、という結論を出すことで頓挫してしまいます。そしてカットはその後、インスティテュート・オヴ・カラード・ユースという有色人種たちのための学校を出たところで、白人に殺されてしまいます。


     カットが殺されたころ、ナショナル・アソシエーション・オヴ・ベースボール・プレイヤーズからナショナル・アソシエーション・オヴ・プロフェッショナル・ベースボール・プレイヤーズが1871年に分離すると、アメリカ球界は、アマチュアからプロの時代に入ります。
     そして球史初のアフリカン・アメリカンのプロ野球選手として登場してくるのが、バド・ファウラーです。ファウラーは1878年に、ペンシルヴァニア州ニューカッスルの白人プロフェッショナルチームに参加し、プロ野球選手となりました。このファウラーの影響を受けたアフリカン・アメリカンの野球選手は数多く、たとえば、アフリカン・アメリカン初の大卒プロ野球選手であり、野球史家でもあったソル・ホワイトなどに大きな影響を与えております。


     また、アメリカ野球学会本部の調査によれば、1879年、ナショナル・リーグに当時加盟していたプロヴィデンス・グレイズにて、ブラウン大学の学生であったウィリアム・エドワード・ホワイトが、1試合だけ1塁手として試合に出たことが“判明”し、これが最初のアフリカン・アメリカンのメジャーリーガーと一部では呼ばれておりますが、この人については謎が多いため、やはり最初のアフリカン・アメリカンのメジャーリーガーとしては、このシリーズの第1回でも取り上げた、モーゼス・フリート・ウォーカーが、1882年にトレド・ブルーストッキングスにてキャッチャーとしてプレイするようになってから、アメリカン・アソシエーションに加わったためにメジャーリーガーとなった、というのが通説です。
     ですがウォーカーも、トレド・ブルーストッキングスがアメリカン・アソシエーションに参加した初年度に怪我をしてしまい、それが口実となって、チームをクビになってしまいます。


     このように、アフリカン・アメリカンがメジャーリーグから締め出される状況が着々と進む中、初のアフリカン・アメリカンのプロ野球チームが誕生します。ニューヨークのロングアイランド、バビロンというリゾート地域にあるアーガイルホテルのウェイターの長であったフランク・P・トンプソンが、ホテルに泊まる白人客たちを楽しませるためのアトラクションとして、同ホテルの従業員たちの中から選手を選び、チームをつくったのです。このチームは、キューバン・ジャイアンツと名づけられました。
     そしてこのキューバン・ジャイアンツの登場後、初のニグロリーグが創設されます。その名はサザンリーグ・オヴ・ベース・ボーリスツ。次回はこのリーグの話から入っていきます。


    【参考資料・web】

    Black Baseball 〜A History of African-Americans & the National Game〜
    by Kyle McNary PRC publishing Ltd.,
    Negro League Baseball-wikipedia



     第4回 ニグロリーグのあけぼの 〜その4〜


     読者のみなさまこんにちは。今回は、前回もお話した、サザンリーグ・オヴ・ベース・ボーリスツという球史におけるはじめてのニグロリーグの話から入っていきます。


     このサザンリーグ・オヴ・ベース・ボーリスツは、前回お話した初の黒人選手のプロ野球チーム、キューバン・ジャイアンツを中心に、フロリダ州ジャクソンヴィルの地元紙、“ザ・リーダー”が中心になって結成されました。
     参加したチームは、

    ●メンフィス・エクリプス
    ●ジョージア・チャンピオンズ・オヴ・アトランタ
    ●サヴァンナ・ブローズ
    ●メンフィス・ユーレカス
    ●サヴァンナ・ラファイエッツ
    ●チャールストン・フルトンズ
    ●ジャクソンヴィル・アスレチックス
    ●ニューオーリンズ・ユニオンズ
    ●フロリダ・クリッパーズ・オヴ・ジャクソンヴィル
    ●ジャクソンヴィル・マセドニアズ

     の10チームでした。そして、1885年6月7日には、初試合がメンフィス・エクリプスとニューオーリンズ・ユニオンズとの間で行われます。


     ところがこのリーグは、もともと多額の負債を抱えながらスタートしたので、結局は1年で破綻してしまいます。
     読者のみなさまも、一豊さんの四国アイランドリーグ情報をお読みであればすでにおわかりいただけていると思いますが、リーグ創設時の借金、スポンサー、あるいは広告宣伝や収支の問題がいかに難しいか、ということはよくご理解されていることと思います。ましてやこの時代、観客の質によっても興行収入の内容が決まってしまうことからキャップ・アンソンがカラーラインを引いたのは、すでに第1回で指摘したとおりです。


     ですが、このリーグの破綻自体は、キューバン・ジャイアンツの破綻にはつながりませんでした。というのも、キューバン・ジャイアンツは、1885年から1886年の冬季にかけ、南部にて巡業を行い、多額の興行収入を上げたからです。
     結局レギュラーシーズンとしてのリーグが破綻したため、このような方法でプロとしての興行を続けていったのでしょう。
     そして、このキューバン・ジャイアンツの成功が、続く球史における2番目のニグロリーグ、ナショナル・カラード・ベース・ボール・リーグの結成へとつながっていきます。


     ナショナル・カラード・ベース・ボール・リーグは、第2回で最後に触れた、リーグ・オヴ・カラード・ベースボール・クラブスの別名です。
     そして初年度は、キューバン・ジャイアンツがリーグ1位、続いてピッツバーグ・キーストーンズが2位になったことは説明しました。これは次の年も同じ結果に終わり、1888年にはキューバン・ジャイアンツが初のリーグチャンピオンと認定されます。
     すると、このリーグの理事長であった黒人実業家のウォルター・S・ブラウンは、ナショナル・リーグに公式なそのマイナーリーグとしての資格を申請し、それが認められます。
     その結果、ナショナル・カラード・ベース・ボール・リーグは、ナショナル・リーグの特徴であった保留条項を適用するようになり、選手がほかのチームのためにプレイするのを禁ずるようになります。


     しかしこれは結局、リーグの破綻を招きます。翌年のシーズン開始後、まずボストン・レゾルーツが破綻します。そしてその1週間後には、参加していた9チームのうちの5チームが抜けるなり、破綻するなりして、3チームのみが残ることとなり、結局リーグ自体が破綻してしまったのです。
     これは、当時のアフリカン・アメリカンの経済事情を考える必要が、あります。南北戦争のおかげで奴隷階級から開放されたばかりのアフリカン・アメリカンたちは、奴隷としての身分から解放されたとはいえ、まだまだ経済的には厳しい状況に置かれており、いくつもの仕事を抱えながら、あるいは野球選手ならチームを掛け持ちしてプレイをやるのが、普通でした。白人のナショナル・リーグの選手たちみたいに、副業が経理屋とか、保険屋のような高収入の仕事ではなかったのです(無論、白人同士の中でも、貧富や学歴の差があり、それがブラックソックス事件へとつながっていったのは、以前にも私の運営する掲示板、COOLTALKで指摘したとおりです)。


     しかしそんな中でも、キューバン・ジャイアンツが安定した経営を行い、強さを誇ったのは、もともとホテルの従業員としての安定した収入とステイタスがあったためなのではないか、と私は考えています。
     次回は、そのキューバン・ジャイアンツにさらに突っ込んでいきます。


    【参考資料・web】

    Negro League Baseball-Wikipedia

    NLBPA-1887 Cuban Giants



     第5回 ニグロリーグのあけぼの 〜その5〜


     読者のみなさまこんばんは。今回は、初のアフリカン・アメリカンのプロフェッショナルチーム、キューバン・ジャイアンツの話です。


     19世紀後半から末にかけてのアメリカ東海岸では、第3回にも登場した、19世紀版ジョージ・スタインブレナーといわれる豪腕プロモーターのオクタヴィウス・カット率いる、フィラデルフィア・フィティアンズという強豪セミプロチームがフィラデルフィアに誕生したのですが、本格的なプロチームとしてアフリカン・アメリカンのチームが登場したのは、このキューバン・ジャイアンツが最初でした。


     第3回でも軽く触れたとおり、このチームは、ニューヨークのロングアイランド、バビロンというリゾート地域にあるアーガイルホテルのウェイターの長であったフランク・P・トンプソンが、ウェイターや荷物係のアフリカン・アメリカンたちを集めてつくったチームですが、1885年の際のチーム創設当初の名前は、アスレチックスといいました。しかしすぐに、キューバン・ジャイアンツと改名したのです。
     このアスレチックス、のちのキューバン・ジャイアンツは、夏季において、白人客を楽しませるための野球チームとして誕生しました。いうなれば、日本における天勝野球団のような存在だったのです。
     ちなみに天勝野球団という日本における史上2番目のプロチームは、大正10年当時の日本の芸能界における大スター、松旭斎天勝という女手品師の興行のオプションとして誕生したチームですが、本業の客寄せ媒体、ならびに広告宣伝媒体として誕生した経緯については、これら両者は驚くほどよく似ております。


     しかしこのキューバン・ジャイアンツ、アフリカン・アメリカン版日本運動協会ならびにシンシナティ・レッドストッキングスが、日本球界における日本運動協会の立場やアメリカ球界におけるシンシナティ・レッドストッキングスの立場と大いに異なっていたのは、すでにナショナル・リーグならびにアメリカン・アソシエーションというメジャーリーグが、先駆者として誕生していたところでした。そして白人プロモーター、ジョン・F・ラングの手配により、アメリカン・アソシエーション所属の地元チーム、ニューヨーク・メトロポリタンズとエキシビジョンマッチを行い、11-3で敗れますが、このように、有名チームと闘うなどして、次第に名声を高めていくことになります。


     次回は、このチームを運営する白人実業家としてウォルター・クックが加わってからの、キューバン・ジャイアンツの快進撃について紹介していきます。


    【参考資料・web】

    NLBPA Official Site

    Shoeleather History of Hartford

    ・A Completely History of the Negro Leagues 1884 to 1955
    by Mark Ribowsky, 1997 Citadel Press

    ・Sol White’s History of Colored Baseball(Originally written by Sol.White in 1907) with other documents on the early black game, 1886-1936
    Introduction by Jerry Malloy, 1995, Bison Books

    ・Out of the Shadows - African American Baseball from the Cuban Giants to Jackie Robinson
    Edited and with an introduction by Bill Kirwin, 2005, Bison Books

    ・異端の球譜 「プロ野球元年」の天勝野球団 大平昌秀著 サワズ出版、1992


     第6回〜はこちら


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