ニグロリーグと愉快な仲間たち by MB Da Kidd

    第6回 キューバン・ジャイアンツの快進撃

    第7回 キレる男、ジョージ・ストーヴィー

    第8回 ストーヴィー引き抜き騒動



     第6回 キューバン・ジャイアンツの快進撃


     読者のみなさまこんばんは。前回に続き、話は再びキューバン・ジャイアンツからです。


     1885年夏に創設されたキューバン・ジャイアンツは、その年の秋には早速メジャーのチームであるニューヨーク・メトロポリタンズと対戦し、敗れはしたものの、次第に名声を高めていったのは、前回にも記したとおりです。そして、翌年の1886年には、急造チームとしての欠点を克服し、40連勝を記録します。
     しかし、このチームは所詮、巡業チームだったので、ホームタウンといえるフランチャイズシップを置くための街がありませんでした。


     そんな状況の中、チームはトレントンという街に立ち寄ります。
     このトレントンという街は、1885年まではいまのマイナーリーグのレベルの、プロのチームが本拠地にしていました。しかしそのチームは、近くのジャージーシティに本拠を移してしまっていたのです。
     したがってキューバン・ジャイアンツという根無し草のチームがこの街に立ち寄ったとき、この主なき街は、新たな主を求めていました。そこで、ウォルター・E・トンプソンという実業家が間に立ち、キューバン・ジャイアンツは、トレントンを本拠地とし、チェンバースバーグ・グラウンズを新たなホームグラウンドとすることになったのです。そしてトンプソンは話を取りまとめてのち、2ヶ月もたたないうちに、同じ実業家のウォルター・I・クックにこのチームを売却したのです。


     クックとキューバン・ジャイアンツの出会いは、燃え上がる恋のはじまりにも似たものでした。
     クック自身はアメリカ東海岸における有数の資産家の一族で、彼は、愛情をもって、惜しみなく自分のお金をチームに注ぎ込みました。これについては特に、病気や怪我をした選手たちがこれに感謝したといいます。というのも、クックは、こういった選手たちに対する面倒見が非常によかったからです。


     またクックは、白人の観客を喜ばせるために、選手たちに知恵を授けました...アフリカン・アメリカンではなく、キューバ人のようにふるまい、言葉遣いも、スペイン語訛りの英語をしゃべろう、と提案したのです。そしてこの案は、白人客に大ウケしました。その言葉遣いや態度が滑稽だったからです。ただ、いかにもアメリカ人っぽい名前の選手たちだったので、この演出に疑いの目を向ける人も大勢いましたが。


     そしてキューバン・ジャイアンツがトレントンに定着すると、その試合結果が、地元2紙、“タイムズ”と“トゥルー・アメリカン”に掲載されるようになり、その強さを紹介されるようになります。実際、この時期のキューバン・ジャイアンツの打撃陣は長打力・確実性を備え、野手は走塁に長けていました。攻撃の核は、主将にして俊足2塁手のジョージ・ウィリアムス、センターのベン・ボイドで、ほかにも、強打のキャッチャーであるクラレンス・ウィリアムス、ファーストのアーサー・トーマス、ショートのエイブ・ハリソンといった名選手たちがいました。また、守備でも、3塁手のベン・ホームズはとんでもない強肩だったのです。


     それに、ブルペンもまた強力でした。シェップ・トラスティ、ビリー・T・ホワイト、ジョージ・パラーゴは先発の三本柱として活躍しただけでなく、ときには外野手として試合にも参加しました。特に、背の高いトラスティについて地元紙は、“アメリカ最高の有色人種のピッチャー”という称号を与えました。ジョージ・ストーヴィーがこのチームに加わるまでは。


     次回は、このストーヴィーの話から入っていきます。


    【参考資料・web】

    NLBPA Official Site

    ・A Completely History of the Negro Leagues 1884 to 1955
    by Mark Ribowsky, 1997 Citadel Press
    ・Sol White’s History of Colored Baseball(Originally written by Sol. White in 1907) with other documents on the early black game, 1886-1936
    Introduction by Jerry Malloy, 1995, Bison Books
    ・Out of the Shadows - African American Baseball from the Cuban Giants to Jackie Robinson
    Edited and with an introduction by Bill Kirwin, 2005, Bison Books



     第7回 キレる男、ジョージ・ストーヴィー


     読者のみなさまこんばんは。今夜は、前回も最後にて述べたとおり、キューバン・ジャイアンツに加わった大物ピッチャー、ジョージ・ストーヴィーの話から入ってまいりましょう。


     ジョージ・ワシントン・ストーヴィー。19世紀末の球史における、有色人種の中でもっとも偉大なこのピッチャーは、ペンシルヴァニア州ウィリアムズポート出身で、キューバン・ジャイアンツの監督、S.K.ガヴァンが彼と契約を交わしたときには、カナダの白人チームのために投げていました。肌がそれほど黒くなかったこともあり、白人たちとプレイしても、あまり違和感がなかったためと思われます。
     1886年にガヴァンが契約を交わしたとき、彼はまだ、20歳でした。気性が激しく、キレやすい男で、マウンドに立つとものすごい速球を投げていたのです。そして、その彼の高い潜在能力は、契約後初のマウンドで、早速実証されました。


     同年の6月25日。ストーヴィーはマウンドに上がりました。相手はイースタン・リーグのブリッジポート。コネティカット州に所属するこの街は、ニューヨークからほど近く、ロングアイランド島中腹の向かい側にあります。
     そしてこのイースタン・リーグは、1883年に創設されたアメリカ最古のマイナーリーグ。1884年に再編成され、イースタン・リーグと名前を変えたのち、ちょうどその運営が軌道に乗り出したころでした。のちに1913年、インターナショナル・リーグと名前を変えますが、このときに同リーグに所属し、*1ボルティモア・オリオールズと名乗っていたチームが、現アメリカン・リーグの基礎となる選手や人物を数々輩出しています(その中には、ベーブ・ルース[NYヤンキース]やレフティ・グローヴ[300勝投手、フィラデルフィア・アスレチックス、ボストン・レッドソックス]といった名選手がいます)。つまりこのイースタン・リーグは、メジャーではありませんでしたが、かつての*2パシフィック・コースト・リーグのように、非常にレベルの高いリーグとされていたのです。


    *1 ボルティモア・オリオールズ
     球史において、ボルティモア・オリオールズという名前のチームは主に3つ登場する。ひとつは、現アメリカン・リーグ創設時のボルティモア・オリオールズ、ふたつめは上記のインターナショナル・リーグに所属するボルティモア・オリオールズ、3つめが現アメリカン・リーグに所属するボルティモア・オリオールズである。
     ちなみに現ボルティモア・オリオールズは、1954年にビル・ヴィークがボルティモアの投資家たちに売って、定着したチームである。オールドファンのみなさまにはおなじみだが、1971年にはフランクとブルックスの両ロビンソンならびに20勝投手4人を擁して来日、1983年にはルーキーだった鉄人カル・リプケンや3,000本安打兼500ホーマーのエディ・マレーを擁して来日している。


    *2 パシフィック・コースト・リーグ
     現ナショナル・リーグ西地区のサンディエゴ・パドレス、あるいは1969年にシアトルから加入したシアトル・パイロッツ(現ナショナル・リーグ中地区のミルウォーキー・ブリュワーズ)が加入していたリーグ。日本では、サンフランシスコ・シールズに在籍していたレフティ・オドウルの名前とともに有名。


     この試合、ストーヴィーは4失点で負けはしましたが、11三振を奪う好投を見せました。
     1868年という時代は、まだ野球のルールが現代版に整備されていない時代であったことや、ピッチャーが上手投げよりも下手投げで打ちやすいように投げていて、ボールの数がまだ5〜7で三振を取りやすいカウント数であったとはいえ、バッターがボールを選びやすい状況にあったのは事実で、その証拠にメジャーリーグ歴代奪三振数100傑の表を見てみると、19世紀に活躍したピッチャーがほとんどおらず、しかも、1880年代から活躍している選手の名前がまったくないことにお気づきかと思います。
     したがって、ストーヴィーという選手は、ものすごい才能を持ったピッチャーだったのです。


     ですが、このストーヴィーの好投は、キューバン・ジャイアンツにとって思わぬ事態を引き起こすことになります。
     次回はストーヴィーをめぐる騒動、そして、”*3A Cup of Coffee”すら味わえずに才能を“潰されて”しまった彼自身の悲劇の話です。


    *3 A Cup of Coffee
     メジャーリーグに一瞬でもコールアップされて、そこに所属することをいう。その期間の短さから、コーヒー一杯を楽しむ程度の時間、ということでこういう表現が使われる。


    【参考文献・web】

    ・Out of the Shadows ?African American Baseball from the Cuban Giants to Jackie Robinson
    Edited and with an introduction by Bill Kirwin, 2005, Bison Books

    BaseballLibrary.com



     第8回 ストーヴィー引き抜き騒動


     読者のみなさまこんばんは。今回は前回の続きで、19世紀最高の有色人種ピッチャー、ジョージ・ストーヴィーが頭角を顕した結果、どのようなことが起こったかという話から入っていきましょう。


     前回、私はストーヴィーがイースタン・リーグのブリッジポートというチーム相手に3-4と惜敗したものの、一般的には”打たせない技術”がまだポピュラーでなかったために三振が取りにくい状況にあったにもかかわらず、11三振を奪う好投を見せたことはお話しました。
     そして、これを知って動き出したのが、同じイースタン・リーグでもジャージー・シティに本拠地を置くスキーターズです。
     スキーターズは、1885年に創設されたばかりのチーム。ということで、ピッチングスタッフの数が足りませんでした。
     そこで監督のパット・パワーズは、自分の故郷の街であるトレントンに戻ることにしたのです。目的は、ジョージ・ストーヴィーの引き抜きでした。


     パワーズは友人に電報を打って段取りを伝えた上で、真夜中、ひそかにトレントンの街へと忍び込みました。ストーヴィーを叩き起こしてムリヤリにでも契約書にサインさせ、翌朝のジャージーシティの試合に彼を先発させるためです。
     ところが首尾よくストーヴィーを叩き起こしてサインさせ、ひそかに彼を連れ出そうとしたところまではよかったのですが、これがトレントンの人々に見つかったものだからさあ大変。彼らはストーヴィーを街から出すな、と言わんばかりに、警察へと駆け込み、誘拐だ、と騒ぎ立てたのです。パワーズは真っ青になりました。
     そこでパワーズは、警察官に自分が善良ないちアメリカ国民であることを説明し、了解を取り付け、人々の投石の嵐を浴びながら馬車で駅までたどり着き、なんとかストーヴィーをジャージーシティ行きの列車に乗せたのです。パワーズはストーヴィーに、支度金だと言って、20ドルを手渡しました。


     翌朝。パワーズは開店と同時にジャージーシティの紳士服の店に行き、新しいスーツをストーヴィーに買い与え、試合時間まで睡眠をとらせました。人々に驚きの瞬間をもたらすべく、準備したのです。


     試合時間。パワーズはストーヴィーを伴って現れました。しかし、観客は彼をあざ笑いました。特に対戦相手のニューアークの野球ファンは。というのも、白人のピッチャーのスタープレーヤーは数々いましたが、有色人種のピッチャーのスタープレーヤーは、誰一人として出現したことがなかったからです。
     しかし、そのざわめきを、ストーヴィーは一瞬で黙らせました。先発したストーヴィーは1回表、ニューアークの打者を苦もなく三者凡退に片付けたからです。そしてこの試合、ストーヴィーは1−0でニューアークを完封。一気に街のスターへとのし上がりました。


     ストーヴィーはジャージーシティのために勝ち続けました。1887年版リーチズ・オフィシャル・ベースボール・ガイドによれば、勝ち負けの記録こそ残っていないものの、ストーヴィーは1,059人の打者と対戦して177本のヒットしか許さず、被打率はなんと.167。イースタン・リーグで2番目に勝利に貢献したピッチャーと評価されています。1886年に発行されたスポーティング・ニュースでは最初の記事として取り上げられ、“チームがもっとうまく彼を助けられれば、さらにいい活躍をするだろう。ファーストへのベースカヴァーの入り方がすばらしい”と絶賛されます。
     そこでその年の瀬に、パワーズは、ストーヴィーを売り込むために、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ、ナショナル・リーグ)と交渉します。するとパワーズの売込みがよかったのか、ジャイアンツはストーヴィーをジャージーシティから“買い上げる”ことで合意し、ストーヴィーを同じイースタン・リーグのニューアークに移籍させた上で、シカゴにて行われる4試合ピッチングを見てからメジャーに引き揚げる、ということになりました。


     ところが、これが実現されることはありませんでした。というのも、私がこの連載の第1回で紹介したとおり、キャップ・アンソン率いるシカゴ・ホワイトストッキングスが、ストーヴィーを先発に立てることがわかると、その対戦の拒否を通告してきたからです。
     19世紀最大の有色人種ピッチャー、ジョージ・ストーヴィーが全米で日の目を見ることはなかったのです。そしてストーヴィーの名前は、サイ・ヤング、あるいはウォルター・ジョンソンと並び称されることはなかったのでした。
     このような経緯により、ストーヴィーは、その鬱憤をイースタン・リーグで晴らすこととなりました。33勝14敗、外野手としても54試合に出場し、打率.255を叩き出す活躍を見せ、ニューアークがイースタン・リーグで4位になる原動力となったのです。しかし、キャップ・アンソンのなしたいたずらはあまりにも大きく、この偉大なピッチャーの名前は、いまでも知られずにいるのです。私はそのことを、非常にもったいないと感じています。


     次回はキャップ・アンソンがカラーラインを引いた当時、有望株だった有色人種の選手にはどういう人たちがいたかを振り返っていきます。


    【参考文献・web】

    ・Out of the Shadows - African American Baseball from the Cuban Giants to Jackie Robinson
    Edited and with an introduction by Bill Kirwin, 2005, Bison Books

    ・Only The Ball Was White ?A History of Legendary Black Players and All Black Professional Teams
     Writtten by Robert Peterson, 1970, Oxford Paperbacks, Oxford Press


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