俺が好きなスポーツ by ダイスポ 現代USスポーツ人名録

     現代USスポーツ人名録 〜その2〜(連載第53回〜56回)


     ■現代USスポーツ人名録 第4回 マット・ケンセス(NASCAR)
     ■現代USスポーツ人名録 第5回 トム・パパス&ブライアン・クレイ(陸上十種競技)
     ■現代USスポーツ人名録 第6回 ケリー・ウォルシュ&ミスティ・メイ(ビーチバレー)
     ■現代USスポーツ人名録 第7回 ミア・ハム(女子サッカー)



     連載第53回
     現代USスポーツ人名録 第4回 マット・ケンセス(NASCAR)


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今回は、いまやアメリカ最高の人気スポーツに成長したナスカー(NASCAR)から、昨年の年度チャンピオン、マット・ケンセス(Matt Kenseth)選手をご紹介することにいたしましょう。


     「俺スポ」をお読みいただいている読者の皆さんなら、もうNASCARというレースについてはよくご存知ですよね。第12回、アメリカン・スポーツワールドの”NASCAR入門”でもご紹介したとおりです。
     この"National Association for Stock Car Auto Racing”を略した名称であるNASCARは、アメリカでは既にF1やインディカーを超える最高の人気モータースポーツに成長、それどころか近年では、メジャーリーグやNBAなどのいわゆる「北米四大スポーツ」に並ぶ熱狂的なファンを獲得したと言われています。今、アメリカで最も熱いプロスポーツ、それはNASCARだと言っても決して過言では無いでしょう。


     NASCARには様々なランクのシリーズがありますが、この中でも最高の、いわゆるメジャーリーグに相当するのが「ウィンストンカップ」と言われたカテゴリーのシリーズです。この「ウィンストンカップ」には文字通り、NASCARを代表するスタードライバーが達がずらり勢ぞろいし、2月から11月まで毎週のように全米各地を転戦しながら、栄光の年度チャンピオンを決定しているのですが、今年(2004年)からスポンサーが移動体通信のネクステル社へ変更になり、その名も「ネクステルカップ」と改められました。NASCARとネクステルは、10年契約で7億ドルという巨額の契約を結んでいます。


     アメリカのレーサーの卵たちにとって最大の夢が、このウィンストン改め「ネクステルカップ」でデビューを果たし、そしてレースに勝つことでしょうね。
     そして昨年、2003年度の「ウィンストンカップ」シリーズ王座に輝いたのが、今日ご紹介するマット・ケンセスです。
     1972年、ウィスコンシン州ケンブリッジという小さな町に生まれたケンセスは、16歳になると本格的にレースをはじめます。このウィスコンシン州では、1周の距離が短い、いわゆる「ショートトラック」と呼ばれるレースが盛んに行われているそうですが、ケンセスは自身3度目のレースでいきなり優勝、その才能の片鱗を早くも見せ付けます。ベテランのドライバー達と激しくしのぎを削り、レーサーとしての腕を磨いていったケンセスは19歳にして、ウィスコンシン州ラクロスで行われたARTGOチャレンジ・シリーズで優勝を遂げます。このシリーズで今まで最年少優勝の記録を持っていたのが、ウィンストンカップの常連として活躍しているベテラン、マーク・マーティンでした。そしてウィスコンシンでケンセスとライバルとして戦っていたレーサーに、ロビー・ライザーというベテランのドライバーがいました。このライザーが、後にケンセスと深くかかわっていくことになりますが「俺とマットはあの頃、グッド・フレンドというわけじゃ無かったな」と当時を振り返っています。


     その後もウィンスコンシンで向かうところ敵無しの活躍を続けるケンセスに、いよいよ全米デビューの機会がやって来ました。
     1995年、ケンセスはNASCARの下部カテゴリーに進出、着々と実績を挙げていきます。そして1997年のある日、ケンセスはかつての宿敵・ライザーから意外な内容の電話を受けます。それは、NASCARでも上から2番目のカテゴリーにランクされる「ブッシュ・グランド・ナショナルシリーズ」への出場依頼でした。ライザーは現役を退き、オーナー兼クルーチーフとしてブッシュシリーズに参戦していましたが、ドライバーが負傷したため、代わりの選手を探していました。ケンセスと激しく戦ったライザーは、誰よりも彼の才能と実力を認める存在でもあったのです。


     こうやってケンセスはブッシュ・シリーズに出場することになり、その後次々と好成績を収めていきます。するとケンセスは、一躍関係者の注目を集め、念願のウィンストンカップ・デビューまで、もうあと少しのところまで漕ぎ着けたのでした。


     そして1998年9月、遂にウィンストン・カップへスポット参戦。この年ブッシュ・シリーズで総合ランキング2位に食い込む活躍を見せたケンセスは、翌99年からはブッシュ・シリーズに出場しながらもウィンストンカップでより出走の機会をうかがい、同年ラウシュ・レーシングチームから5戦に出場、最高で4位という好成績を挙げました。


     続く2000年シーズンは、ラウシュ・レーシングから念願かなってフルタイムでの「(ウィストン)カップ」参戦を果たしたケンセスにとって、大ブレイクの年となります。ノースカロライナ州のシャーロット・モータースピードウェイで5月に行われたビッグイベント「コカコーラ600」レースに出場したケンセスは、ルーキーとして自身18戦目の出走にして早くも初優勝を遂げ、一気にその名は全米へ知れ渡ることになりました。この年の優勝は結局「コカコーラ600」の1度だけでしたが、4つのレースでトップ5入りを果たすなど着実なドライビングが評価され、2000年度の新人王に選ばれています。偉大なレーサーの父を持つ注目のサラブレッド、デイル・アーンハ−トJr.を抑えての受賞だけに、ケンセスの若手ホープとしての地位はこれで確立したかに思われました。


     しかし、NASCAR最高峰シリーズの水は、やはりそう甘くはありませんでした。翌2001年に入ると、ケンセスは「2年目のジンクス」とでも言うべきスランプに悩まされ、年間でもランキング13位という残念な結果に終わります。
     ですが、それでも2002年に入ると、再びケンセス旋風がやって来ました。2月、ノースカロライナ州ロッキンガムで行われた「サブウェイ400」では、レース終盤での逆転劇を見せてほぼ2年ぶりの優勝を遂げると、この年一気に5勝を記録する荒稼ぎでトップ・レーサーの仲間入りを果たします。ただ一方では、不調で下位に沈むレースもあり、年間ランキングでは8位というやや不満足な成績に終わってしまいました。


     するとその反省からか、ケンセスは2003年に入ると年間タイトル奪取に意欲を燃やします。得意のラスベガス・モータースピードウェイで行われたシリーズ3戦目に優勝。以降、この年のケンセスがレースで勝ち名乗りを挙げることはありませんでしたが、11回のトップ5、23回のトップ10フィニッシュと、勝てないまでも常に安定した着実な走り振りを見せて上位入賞を繰り返したケンセスは、ポイントリーダーの位置を保ち、そのままシーズン終了。ジミー・ジョンソンやアーンハートJr.といった若手のライバル達を抑えて、「ウィンストンカップ」の名称としては最後の王者に輝いたのです。
     こうしてケンセスに、全てのレーサー達の頂点に立つ、夢にまで見た時が遂に訪れました。ケンセスの父や妻のケイティ、ラウシュ・レーシングのチームメイトとして彼を支えてくれたマーク・マーティン、そしてケンセスのクルーチーフであるボビー・ライザーといった人々は、この若き王者の誕生に喜びを爆発させ、地元ウィスコンシンでも、町の人々からはささやかながら暖かい歓迎を受けたのです。


     しかし、その栄光と喜びの日々は長くは続きませんでした。

     「わずか1勝しかしてないのに、どうしてカップ制覇できるのか。システムがおかしいのではないか」
     「1勝でチャンピオンなんてつまらない、ドラマチックじゃない」

     などといった、ケンセスにとって見ればやや不公平とも言える非難が高まります。そしてNASCARは、まるでそういった批判にこたえるかのようなタイミングで、メジャーリーグ・ベースボールに見られるような上位ランキングのドライバー10名によるプレーオフ導入など、王者決定へのシステムを変更することを決断しました。
     こうして始まった2004年シーズン。ケンセスは序盤戦いきなり連勝。批判を跳ね返していきなり前年度を上回る勝ち星を挙げて、王者として自分がふさわしいことを証明したのですが、続く今年の2005年シーズンも、2年連続でのカップ王者となれることが出来るでしょうか。彼の闘いは続きます。


     いかがでしたか。来月もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。


    《主な参考Web・資料》

    Matt Kenseth Driver Profile @ NASCAR.com
    Roundracing.com Matt Kenseth
    ・"Sports Illustrated Presents WINSTON CUP 2003"
    ・"Beyond the Glory Matt Kenseth (FOX Sports Net)"



     連載第54回
     現代USスポーツ人名録 第5回 トム・パパス&ブライアン・クレイ(陸上十種競技)


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今回は、スポーツ大国アメリカにおいても最も国際舞台で活躍する選手の多い、陸上競技を取り上げてみたいと思います。


     皆さんは、アメリカの陸上選手と言えば一体誰を思い出すでしょうか。
     ロス五輪やソウル五輪などで長く活躍したスーパースターのカール・ルイス。奇抜なファッションで人々に愛されながらも、若くしてこの世を去った悲劇の女王、フローレンス・ジョイナー。あるいはマイケル・ジョンソンや、シドニー五輪で活躍したマリオン・ジョーンズらの雄姿が記憶に新しい方も多いことでしょう。


     では皆さんは「デカスロン」という競技をご存知でしょうか?名前だけなら聞いたことあるけど、一体どんなことやるのかわからないな、という人も多いことでしょう。あるいはマンガを読むのがお好きな方は、山田芳裕の描いた人気コミック『デカスロン』で、この競技のことをよくご存知の方もいるかもしれませんね。「デカスロン?昔、世界史の授業で習ったな」って方はいらっしゃいませんか?それは『デカメロン』と混同されているかもしれませんので、気をつけてくださいね。


     冗談はさておき、このデカスロンと言うのは陸上の「十種競技」のことです。男子の行う混成種目で、2日間に渡って行われるこのデカスロン。初日は100m、走り幅跳び、砲丸投げ、走り高跳び、そして400m。続く2日目には、110mハードル、円盤投げ、棒高跳び、槍投げ、そして最後に1500mの種目を行い、それぞれの種目の記録をポイントに換算、全ての合計得点で最終的な順位を決定します。
     今回のアテネ五輪で、室伏広治選手が金メダルを獲得したハンマー投げは残念ながら種目に入っておりませんが、しかしこれだけ性質の全く異なる競技を一人で、しかも2日間のうちに全て行うことの難しさを考えてみてください。それはもう、気の遠くなるような話だと思いませんか?
     多くの選手にとっては、一種目だけでも極めるのは至難の業なのに、デカスロンに出場する選手達は、これら10種目を全てこなすことが出来る万能選手達なのです。肉体的にも精神的にも、そして技術的にも、陸上競技、いやあらゆるスポーツの中でも最も過酷なトレーニングを必要とするのがデカスロンだと言えるでしょう。
     だから欧米では、デカスロンの選手は「キング・オブ・アスリーツ」と呼ばれて尊敬されています。ちなみに女子は「ヘプタスロン」と呼ばれる、やはり同様の七種競技を行います。


     アメリカの十種競技選手は、近代五輪において活躍を続けてきました。その先駆けは、なんといってもジム・ソープ。1912年のアムステルダム大会で金メダルを獲得したソープは、当時の厳しいアマ規定によりメダルを剥奪されてしまいますが(死後に返還)、当時のスウェーデン国王から「あなたは世界最高のアスリートです」という祝福の言葉を授かっています。ちなみにソープはアマ資格に問われ失格になった後、メジャーリーグやプロフットボールでその才能を如何なく発揮しました。
     戦後でもアメリカ勢の活躍は続き、1996年に行われたアトランタ五輪では、ダン・オブライエンが見事に金メダルを獲得しています。


     そして、今日このコラムで取り上げますトム・パパスとブライアン・クレイの両選手は、米国を代表してアテネ五輪の十種競技に出場したデカスリートでした。まずパパスですが、ギリシャ系の血を引くため、今大会では大変人気があったようです。2003年にパリで行われた世界陸上では見事に金メダルを獲得。もちろんアテネでも、金メダル有力候補の一人として期待されておりました。ちなみに、祖父はプロレスラーだったそうです。脂が乗り切っているだけに、今大会での優勝が大いに期待されておりました。
     一方のクレイは、1980年生まれの24歳という新鋭。テキサス州のオースティンに生まれましたが、5歳の時にハワイに移り住みました。父は黒人、そして母は日系アメリカ人と言うことで、父からは瞬発力、そして母からは持久力を授かったのかもしれませんね。母親の影響で、子供の頃から日本食を食べていたそうです。私は彼が日本人の血を引いていると言うことをずっと知りませんでしたが、その風貌からアジア系に近いのかな、とは思っていました。カリフォルニア州サクラメントで行われた五輪米国予選ではパパスを破り、この「伏兵」の登場は驚きをもって迎えられました。しかし身長180cmと小柄なのが災いしたのか、クレイの前評判は実績ほどには高くなかったのです。


     8月23日、注目の十種競技がアテネで始まりました。1日目はまず100mからスタート。パパスとクレイは同じ組で走り、クレイが10秒44の好タイムを出して見事1着でゴールイン。パパスは、10秒80の記録で同組6位でした。一方、十種競技の世界記録保持者で、金メダル候補であるチェコのロマン・シェブルレは別の組で登場しましたが、10秒85のタイムで2位という記録を残しています。この結果、クレイが989点で全体トップ、2位にはカザフスタンのアジア王者ドミトリ・カルポフが食い込み、9位に906点のパパスが付けました。まずはクレイが好スタートを切ったことになります。


     続く2種目の走り幅跳びでは、パパスが期待を下回る成績に終わりましたが、対するクレイは素晴らしいジャンプを披露。2種目終了の時点で1位はクレイ、2位カルポフは代わらず、パパスは10位と苦しい戦いが続きます。砲丸投げでは、シェブルレが自己最高の記録を出してガッツポーズ。カルポフも好記録を出すと、パパスも盛り返して総合5位に付けました。
     続く走り高跳びではこの種目を得意とするパパスでしたが、記録は低調。対照的にシェブルレはまたもガッツポーズを見せて、場内の観衆を大いに沸かせました。だが初日1位で終えたかったクレイは、ここでカルポフに抜かれてしまい総合2位に落ちています。またパパスも6位と順位を一つ下げました。そして1日目最後の400m走ではカルポフが46秒81と2組トップでゴールイン、パパスが3位に食い込みましたが、対照的にクレイが振るわず下位に沈んでしまいました。この結果、初日を終えてカルポフが総合1位、世界記録保持者のシェブルレが2位と、やはり強豪が上位を占めました。クレイは健闘しましたがラスト2種目の不振がたたって総合3位、そしてパパスは5位で前半戦を終えています。


     翌24日、いよいよ雌雄を決する勝負の2日目を迎えました。4年間の努力が報われるのか、それとも...シドニー五輪では銀メダルを獲得、今度こそ金を、と気合の入るシェブルレは、円盤投げでも好記録を出して吼えます。だがカルポフが1位、シェブルレは2位そしてクレイ3位のオーダーは変わりません。
     そして、運命の8種目目、棒高跳びを迎えました。パパスは助走で左足を痛めて途中で失速、そのままバーを落として止まってしまいました。パパスはなんとか競技を行おうとしましたが、結局そのまま競技場を後にします。先祖の地ギリシャで無念のリタイア、金メダルを逸すると言う残念な結果に終わり、パパスのアテネは終わりを告げました。肉体に最大限の負荷がかかるデカスロンの選手に怪我は宿命ともいえますが、それにしても、あまりにも過酷な現実でした。


     対照的にクレイは、最後の1500mまで競技をやり遂げ、この結果合計8820点を獲得して見事2位に入り、銀メダルを獲得しました。そして注目の金メダルは、これまで大きな大会で優勝に縁がなかったシェブルレが、じわじわとカルポフとのポイント差を詰めたあと、槍投げで遂に逆転。8893点と、20年ぶりに五輪記録を塗り替える大記録を打ち立てて、念願のビッグタイトルを手にしました。
     一方、銀メダルを獲得したクレイは陸上王国、そしてソープやオブライエンらが築き上げてきた米国十種競技の伝統と面目を、なんとか守ったことになります。クレイは「もしパパスの怪我がなかったら、僕達は一緒に表彰台に上っていたと思うよ」と、パパスを気遣うコメントを残していました。


     全ての種目が終わったとき、皆は疲労の極限にまで達していたと思いますが、戦い終わってノーサイド。お互いの健闘をたたえました。これが、選ばれしスーパー・アスリート達が死力を尽くして戦う、デカスロンの最も素晴らしい瞬間なのかもしれません。


     いかがでしたか。来月もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。



     連載第55回
     現代USスポーツ人名録 第6回 ケリー・ウォルシュ&ミスティ・メイ(ビーチバレー)


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今回も先月に引き続き、今年の8月に行われたアテネ五輪のヒーローをご紹介することにいたしましょう。


     皆さんの中には海へ行ったときに、波打ち際でビーチボールを使ってのバレーボール(の、ようなもの)を楽しんだことのある方も多いと思います。中には、本物のバレーボールを用いて、本格的なビーチバレーをプレーした人もいらっしゃることでしょう。
     このビーチバレー、最近になって生まれたニュースポーツに思われがちですがその始まりは意外に古く、1920〜30年代にカリフォルニア州のサンタモニカで始まったのが起源だといわれています。
     その後ヨーロッパなどへも広まったビーチボールは、1940年代に入ると競技として行れるようになり、さらに60年代には発祥地サンタモニカを中心にプロの選手達が現れました。着実に発展を遂げてきたビーチバレーは、1996年のアトランタ五輪からオリンピックの正式種目として採用されています。
     日本では64年の東京五輪以来、室内バレーボールがお家芸として発展し人気を博しててきたので、ビーチバレーはあまり馴染みがありませんでした。だが室内バレーの全日本選手として人気が高かった佐伯美香選手がビーチに転向したことで、この競技に対する関心を持った方もいらっしゃたことでしょうね。


     なんとなく遊びの要素が強いイメージが強かったビーチバレーですが、2人1チームで行われるこの競技は、鍛え抜かれたアスリート同士が持ち前の技術と、知力と体力の限りを尽くして戦う、完成度の高いスポーツです。なにしろ下が砂浜ですから、豪快なダイビングプレーもお手の物。また二人しかいませんから、いくら上手い選手同士がペアを組んだとしても、息が合わないことにはお話になりません。だからパートナーとの精密なチームワークが要求されるわけです。
     それにインドアのバレーボールと違って、風向きなどの気象条件も考慮しながら、試合に勝つ為の戦術を構築しないといけません。こうして見ると、ビーチバレーというスポーツがいかに激しく、難しい競技であるかご理解いただけると思います。


     一方では、ビジュアル面でのおしゃれさもビーチバレーの魅力だと言えるでしょう。特に女子チームの場合は引き締まった体を鮮やかなビキニの水着に包み、健康的なイメージが強いので「見るスポーツ」としても人気が高いと言えます。女性アスリートのスーパースターが多数輩出されているアメリカのスポーツ界ですが、現在の米国ビーチバレー界を代表するスター選手が、今日紹介いたしますミスティ・メイとケリー・ウォルシュのペアです。
     まずウォルシュですが、1978年カリフォルニア州のサンタクララ生まれ。父がオークランド・アスレチックス傘下のチームでプレーした事もあるマイナーリーガーだったウォルシュは、優れた運動能力と、6フィート3インチ(約191cm)という恵まれた体格を授かりました。西海岸の名門校スタンフォード大学で、アメリカ研究に関する学士号を得たインテリ選手でもあるウォルシュは、元々は室内バレーの選手として活躍。4年連続オールアメリカンに輝くなどの実績を引っさげて米国代表入りを果たし、2000年のシドニー五輪にも出場、チームの4位入賞に貢献しています。
     一方のメイは、1977年にウォルシュと同じくカリフォルニア州に生まれます。五輪バレー選手だった父の影響もあって、子供の頃からサンタモニカビーチでバレーに親しんでおりました。地元のロングビーチ州立大学に進んだメイは、やはり室内バレーの選手として活躍、1998年にはNCAA全米学生選手権の優勝を勝ち取っています。
     ですがその後ビーチバレーに転向、シドニー五輪に出場して5位に入賞しました。このメイと、そしてシドニーが終わったあとにビーチへ転向したウォルシュの二人は2001年からペアを組み、破竹の快進撃が始まります。翌2002年には、FIVB(国際バレーボール連盟)ツアーの年間チャンピオンに輝くと、2003年には負け無しの圧倒的な強さを見せ付け、国内AVPの年度最優秀チームに文句なしで選出されました。


     この大活躍でメディアからの注目を浴びた二人は、スーパーボウルで放送されたクレジットカードのCMにも登場するなど、ビーチバレーファン以外にもその人気を広げていきます。私自身、二人の存在を知ったのはこのCMを通じてでした。凍てつく氷上でビキニ姿の二人が「ビーチ」バレーをプレーするという、なんとも寒そうな内容のコマーシャルでしたが、二人が熱演したこのCMのインパクトはなかなかのものでした。個人的には、メイのミステリアスな美貌に惹かれたものです。


     そしてトップシードで迎えた、今夏のアテネ五輪。だがここまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。実は大会前にメイが負傷していたのです。回復が遅れて、五輪にも出場できないのでは・・・などの憶測が流れましたが、その心配は杞憂に終わりました。ウォルシュ・メイ組は日本の徳野・楠原組を問題なく退けるなど順調に勝ち進み、とうとう金メダルを賭けた決勝戦へ進出を決めます。
     対するはアメリカと並ぶビーチバレー大国、ブラジル。しかし米国コンビは宿敵をセットカウント2−0で破り、見事に金メダルを獲得しました。メイは「今でも夢を見ているみたい、私の人生の中で最も素晴らしい瞬間だったわ」と、金メダルを獲得した喜びを表しています。子供の頃、家族とサンタモニカの海岸でバレーボールと戯れていた少女が20年後、世界の桧舞台で最も輝いた瞬間でした。
     またウォルシュは、スタンドで応援してくれた家族の姿を見つけたとき客席に駆け上がり、家族と抱き合います。眼には涙が浮かんでいました。「飛行機に乗るのが嫌いなのに、私を応援するためにアテネまで来てくれたなんて…本当に素晴らしいわ」と、ウォルシュは感激に声を震わせました。そして表彰台の一番高いところに上った二人は、お互いの手を重ね合わせながら米国国歌を聴くことが出来たのです。


     アメリカに初めての女子ビーチバレー金メダルをもたらしたメイとウォルシュは、10月には女性スポーツ財団(WSF)が選出する、年間最優秀選手団体部門での受賞を果たしています。名実共に、米国女子スポーツ界の頂点に立ったわけです。第1シードの重圧を跳ね除けて、栄冠を勝ち取った二人の活躍に胸をときめかせた子供達の中から、きっと未来のビーチバレー金メダリストが出てくることでしょうね。


     いかがでしたか。来月もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。



     連載第56回
     現代USスポーツ人名録  第7回 ミア・ハム(女子サッカー)


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今年最後の本連載では、米国、いやワールドスポーツ史上に残る偉大な名選手を取り上げたいと思います。その名は、ミア・ハム。女子サッカーを人気スポーツとして米国中に広めた、この不世出の名ストライカーが今月、静かにピッチを去りました。この「現代USスポーツ人名録」では、ミアが歩んできた偉大な足跡を振り返りながら、彼女の功績をたたえることにしたいと思います。


     2004年12月8日、カルフォリニア州カーソンのホームディーポセンターで行われた米国対メキシコの女子サッカー国際試合。この日の試合は米国サッカー界にとって記念すべき、しかし大変悲しい一日になってしまいました。世界最強の名をほしいままにしてきた、偉大な米国代表の主力選手達が揃ってユニフォームを脱いだからです。ジョイ・フォーセット(故障の為試合には不出場)、ジュリー・ファウディ、そしてミア・ハム。中でもミアの引退は、サッカーを愛する多くの人々にとってたいへん残念なことでした。


     試合は序盤から、米国の圧倒的有利な展開で進みます。先発出場を果たしたミアは、開始早々に右サイドを突破しシュートを放つも、惜しくもコースが反れて得点なりませんでした。しかし、その後は2アシストの活躍。前半を終えて4−0と主導権を握ったアメリカは、後半にも1点を挙げてダメ押し、5−0のゴールラッシュで大勝するという、3選手の門出に相応しいゲームとなりました。終盤に入ると、ミアとファウディが交代で相次いでピッチを退いていきます。両選手に対するカーテンコールの時を与えた、監督の粋な計らいだったのでしょう。目を真っ赤に腫らしたミアは15,000人以上の観衆へ、惜別の気持ちを込めて手を振り、ベンチに下がるとスタッフや控え選手達と抱き合いました。
     その光景をスタンドで見つめていた、未来のサッカー選手を夢見る少女達は、彼女の最後の雄姿を胸に焼き付けながら、ミアのゴールに胸を膨らませた日々を振り返っていたことでしょう。そしてもちろん客席には、ミアの最愛の人...シカゴ・カブスの遊撃手、ノマー・ガルシアパラの姿もあったのです。


     1972年、ミアことマリエル・マーガレット・ハムは、米国南部のアラバマ州に生まれました。空軍の戦闘機パイロットだった父の勤務で、イタリアなど基地がある町を転々として住むようになったミアは、幼い頃から優れた運動神経を見せていました。
     そしてボールを蹴ることの魅力に触れたミアは5歳でサッカーチームに入り、本格的にこのスポーツと親しむようになります。中学ではアメリカン・フットボールをプレーするなど男勝りな面もありましたが、その一方ではサッカー選手として抜群の実力を見に付けたミアは、なんと15歳の若さで米国女子代表チームの一員に選ばれたのでした。もちろん最年少選手であり、サッカーをやるために生まれてきた「天才少女」に成長した、ということが良く分かりますね。


     やがてミアは、米国大学サッカー界の名門であるノースカロライナ大学(UNC)に入学。「ターヒールズ」のニックネームで知られるUNCはバスケの強豪でもあり、あのマイケル・ジョーダンも出身者として知られています。ミアはUNCで政治学を専攻していましたが、キャンパスで出会ったクラスメートと恋に落ちます。
     後に海兵隊へ進んでパイロットになったこの男性とミアは結婚しますが、多忙な生活におけるすれ違いから、二人の結婚生活は離婚と言う形で破局を迎えることになってしまいました。だがピッチの上では、ミアの快進撃が止む事はありませんでした。


     ミアが世界最高の女子サッカー選手としての名声を得る過程で、アメリカ代表もまたその黄金時代を築き上げてきました。1996年には地元開催のアトランタ五輪で、米国は金メダルを獲得。さらに1999年にも米国で行われた女子ワールドカップでは、代表チームの快進撃に国民が熱狂しました。特に決勝戦が行われた、カリフォルニア州パサデナのローズボウルには実に9万もの大観衆が詰めかけ、米国代表へ声援を送ります。そしてテレビの前でも、実に4000万もの視聴者が勝負の行方を見守っていました。
     試合は両国一歩も譲らず、PK戦にまでもつれ込む大熱戦となりましたが、米国は見事、中国を破って世界の頂点に立ちました。多くのメディアがこの爆発的な「女子サッカーブーム」を大々的に報道したため、アメリカでは女子代表の方が男子のフル代表よりも知名度が高い、というユニークな現象がおきたのです。中でもミア・ハムは、その実力と美貌が人々に愛され、米国で最も有名なアスリートの一人になりました。ちょうどJリーグのブームと日本代表の快進撃が始まった頃の「カズ」こと三浦知良選手に対する人気と注目度を考えていただければ良いと思います。そしてスポーツドリンク「ゲータレード」のCMでは、大学の偉大な先輩であるジョーダンとの競演も実現しました。また2001、02年と、FIFA(国際サッカー連盟)の世界最優秀女子選手にも選ばれていますが、連続金メダルが期待された2000年のシドニー五輪では、ノルウェーに敗れて銀メダルに終わっています。


     そして、フィールドの外でも転機が訪れました。2001年に夫と別れたミアですが、その後ボストン・レッドソックスに所属していたガルシアパラとの交際が明らかになります。野球とサッカー、競技は違えどもスポーツ界のビッグカップル誕生に、メディアは注目しました。二人ともアスリートとしては超一流の実力者であり、加えて美男美女のカップルな訳ですからこれは当然でしょう。そして二人は婚約、やがて野球がオフシーズンとなる2003年11月にゴールインを迎えています。レッドソックスの本拠地フェンウェイパークで、二人仲良くボールを蹴っている映像をご覧になった方もいることでしょう。


     それから今年の夏に迎えたアテネ五輪。これがミアにとって、ビッグタイトル獲得の為の最後のチャンスでした。「なでしこジャパン」こと日本の挑戦を退けたアメリカは、強豪ドイツを破って決勝戦に進出。相手はブラジルでした。ベテラン揃いのアメリカは、ブラジル相手に苦しみ抜きましたが、延長戦の結果決勝ゴールが決まり、再び金メダル獲得に成功。ミアは、最後の大舞台で世界の頂点に立つことができました。


     代表275試合出場、そして積み重ねた158ゴールと、サッカーの歴史に残る大記録を次々と打ち立ててきたミア。女王ハムの引退発表を、多くの人々が惜しみました。そしてラストゲームでは先発出場を果たすと、後半には「Garciaparra」と書かれたユニフォームに着替えて出場。ラストゴールこそ挙げられなかったものの、最後のプレーを全力で行った後、静かにフィールドを後にしたのです。ミアと、彼女のパートナーとして長年苦楽を共にしてきたファウディ、そしてフォーセットに対する惜しみない拍手と歓声は、何時までもやむことがありませんでした。サッカー人生を全うし完全燃焼を遂げたミアは、これからは夫であるガルシアパラの目標であるワールドシリーズ優勝の為に、きっと良き妻として新しいチャレンジを続けることでしょうね。


     いかがでしたか。来年もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。


     ※現代USスポーツ人名録、第8回〜11回はこちらから。


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