俺が好きなスポーツ by ダイスポ 現代USスポーツ人名録

     現代USスポーツ人名録 〜その6〜(連載第68回〜71回)


     ■現代USスポーツ人名録 第19回 2005年アメリカスポーツ総決算
     ■現代USスポーツ人名録 第20回 ジョー・パターノ(ペンシルバニア州立大学フットボール監督)
     ■現代USスポーツ人名録 第21回 マイク・シャシェフスキー(バスケットボール)前編
     ■現代USスポーツ人名録 第22回 マイク・シャシェフスキー(バスケットボール)後編



     連載第68回
     現代USスポーツ人名録 第19回 2005年アメリカスポーツ総決算


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今年も皆様にご愛読いただきまして、誠にありがとうございました。来年も、ますますパワーアップした内容でお届けしてまいりたいと思いますので、よろしくお願いします。


     さて今回は年も押し詰まってまいりましたので、2005年アメリカ・スポーツ界総決算!ということで、今年起こった様々な出来事を1月から、簡単に振り返ってみたいと思います。なお今回の文章は、"ESPN SPORTS ALMANAC" 2006年度版を参考にいたしました。


     ●1月(本連載タイトル『現代USスポーツを熱くする人々』)
     [USCトロージャンズ、オレンジボウルでオクラホマ大学を破りNCAAフットボールチャンピオンに/ウェイド・ボッグス、ライン・サンドバーグ両氏が野球殿堂入り決定]


     シカゴ・カブスで強打の二塁手として活躍したサンドバーグ、私自身彼の大ファンでしたので、この殿堂入り決定は本当に嬉しかったですね。


     ●2月(『A.J.フォイト』)
     [ニューイングランド・ペイトリオッツがフィラデルフィア・イーグルスを破りスーパーボウル制覇/ジェフ・ゴードンがNASCAR最大のレースの一つ「デイトナ500」で優勝]


     ホゼ・カンセコの著書出版を機に、メジャーリーグのステロイド騒動が一気に過熱したのもこの頃だったと思いますね。


     ●3月(『セント・パトリックスデースペシャル』)
     [「マーチ・マッドネス」NCAAバスケトーナメント開幕/メジャーリーグでの薬物使用に関する下院公聴会開催]


     現役やかつてのスーパースター達が一堂に会して証言していましたが、いろんな意味で衝撃的な出来事でしたね。


     ●4月(『UNC(ノースカロライナ大学)ターヒールズ』)
     [メジャーリーグ開幕/UNC、イリノイ大学を破り全国制覇]


     いよいよ球春来る!といっても、この頃はまだニューヨークは寒いんですがね。


     ●5月(『ケンタッキー・ダービー』)
     [競馬三冠レース始まる/ダン・ウェルドンがインディ500制覇]


     しかし、美しい女性レーサーのダニカ・パトリックに専ら注目が集まった、今年の500マイルレースでしたね。


     ●6月(『マイク・ハーカス&米国代表イーグルス』)
     [NBAの元スター、ジョージ・マイカン氏死去/スパーズがピストンズを破りNBA制覇]


     いまや国際的なリーグにまで成長したNBAですが、それはマイカン氏のようなパイオニア達の活躍があったからこそ、という事を忘れてはならないと思いますね。


     ●7月(『橋本真也追悼&ディック・マードック』)
     [ニューヨーク、2012年五輪招致でロンドンに敗れる/NHLロックアウト解除しシーズン開幕へ]


     ●8月(『レジー・ミラー』)
     [トニー・スチュワートがNASCAR「オールステート400」優勝/ハリケーン「カトリーナ」米国本土を直撃、ニューオーリンズが甚大な被害を受ける]


     カトリーナは、スポーツ界にも大きな被害をもたらしましたね。


     ●9月(『サッカー米国代表 その1』)
     [ジェリー・ライス引退/NFL開幕]


     セントルイス(元ロサンゼルス)ラムズのファンである私にとって、宿命のライバルであるサンフランシスコ・フォーティナイナーズの主力選手だったライスはなんとも憎き存在でしたが、しかしその息の長い活躍には密かに敬意を払っておりました。長い間、本当にお疲れ様でした。


     ●10月(『サッカー米国代表 その2』)


     [メジャーリーグ、プレーオフが行われる/ホワイトソックス、1917年以来のワールドシリーズ制覇]


     やはり10月は野球に尽きますね。しかしホワイトソックスの快進撃は凄かった。今年からメジャー移籍を果たした井口資仁内野手も、まさかルーキーシーズンで頂点にまで上り詰めるとは夢にも思っていなかったことでしょうね。


     ●11月(『マーブ・アルバート』)
     [NBAシーズン開幕/トニー・スチュワートがNASCAR年度王者に]


     野球が終わってもバスケあり、アイスホッケーあり、フットボールもシーズン佳境と、ほんとアメリカのスポーツ界にはオフというものが全くありません。


     というわけで、駆け足で振り返ってまいりましたが、やはり今年はホワイトソックスの躍進が最大のサプライズかな。「俺スポ」ではもともと「野球以外のスポーツについてご紹介する」という執筆上の基本線があり、本連載でも野球を取り上げる機会もございませんが、もし他の執筆者とは違った切り口でご紹介することが出来れば、また書く機会があるかもしれませんね。
     また上では取り上げませんでしたが、ランス・アームストロングのツール・ド・フランス優勝も心に残る出来事でしたね。来年もまたさまざまなスポーツで、様々な選手達がエキサイティングなプレーを見せて、私たちファンを喜ばせてくれることでしょう。


     いかがでしたか。素晴らしきアメリカン・スポーツの今シーズンについて、もっともっとお話したいところではありますが、

     ♪あまり長いは皆さんお飽き ちょいとここらで変わり〜まぁす〜

     それでは、また来年!



     連載第69回
     現代USスポーツ人名録 第20回 ジョー・パターノ(ペンシルバニア州立大学フットボール監督)


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその20回目です。


     さて、今年のお正月も、日本では様々なスポーツイベントで盛り上がったようですね。アメリカでも元旦からプロ、アマ問わずスポーツの試合は行われておりますが、なんと言っても最大の人気を誇るのが、大学フットボールのボウルゲーム。特に4大ボウルと言われる「ローズ」「オレンジ」「フィエスタ」そして「シュガー」の各ボウルゲームは、近年ではBCS(ボウル・チャンピオンシップシリーズ)としてフットボールファンの熱い注目を浴びています。今年はローズボウルがNo.1決定戦としてカリフォルニア州パサデナで行われ、テキサス大学が南カリフォルニア大学を倒して大学王座に就きました。
     しかし、本連載が今回注目したのは、フロリダ州マイアミのプロプレーヤー・スタジアムで行われたオレンジボウルです。今年のオレンジボウルは、ACC(アトランティック・コースト・カンファレンス)に所属するフロリダ州立大学「セミノールズ」と、ビッグ10カンファレンスに所属するペンシルバニア州立大学「ニッタニー・ライオンズ」という、大学フットボール界を代表する名門校同士の対戦となりました。
     またこの試合では、両校のヘッドコーチ(監督)の顔合わせもまた、ファンやメディアの注目を浴びています。それはなぜか?「セミノールズ」のボビー・ボウデン監督は76歳、「ライオンズ」のジョー・パターノ監督はなんと1926年12月生まれの御年79歳という、老将同士の対戦となったからでした。そしてこのパターノ、愛称”Joe Pa”が、今回の主人公であります。


     ニューヨークのブルックリンで生まれたパターノは、フットボールなど様々なスポーツをプレーすることで身体を鍛えていきました。彼の通っていた高校のフットボール部は、最終学年で1度負けただけという強豪ぶりでしたが、その唯一の黒星をつけた相手の監督が、後にNFLグリーンベイ・パッカーズのヘッドコーチに就任する、若き日のヴィンス・ロンバルディだったそうです。


     パターノが少年時代を過ごしたのは、アメリカの大恐慌時代。高校に入っても、彼の家族は生活が苦しく学費を支払う事が困難で、学校を中退しなければいけない可能性もありました。それでも、第二次大戦中の1944年に卒業へ漕ぎ着けたパターノは、陸軍に従軍したあと、アイビーリーグに所属する東部の名門校、ブラウン大学へ奨学金を得て進学することが出来ました。
     大学では英文学を勉強しながら、フットボール部では攻撃の司令塔であるクォーターバック等をプレーし、1950年に卒業。その後はペンシルバニア州立大で、アシスタントコーチの職を得ました。しかしブラウン大ロースクールへの入学許可を既に得ており、コーチ業が本職になるとは考えておりませんでした。


     ですが結局、パターノは弁護士への道へ進まずに、フットボールのコーチ業を続けます。そして1965年、前任者である学生時代からの師、リップ・イングルの引退に伴って同校のヘッドコーチに就任したのです。これが現在まで40年に渡る「ニッタニー・ライオンズ」での監督業のスタートでした。
     パターノの下で、ペンシルバニア州立大は強豪校としての座を確立していきます。オレンジボウルやフィエスタボウルをはじめ、ありとあらゆるボウルゲームを総なめにしたライオンズは、1982年と1986年の2回、全米大学王座の地位につきました。そしてパターノ自身も、アメリカのスポーツ界を代表する名監督としての地位を不動のものとしていったのです。


     数々の栄光を勝ち取ったパターノは、その後もペンシルバニア州立大での指揮を続けますが、近年は勝てなくなり、「もう監督を続けるのは難しいのではないか」「後進に道を譲ったほうが良いのでは」という批判的な意見も聞かれるようになってきました。2002年には9勝してシトラスボウルに出場したものの、2003年シーズンは一転して3勝9敗と、散々な成績で終了。そして2004年も4勝7敗と、2年連続で負け越す不振のまま終わりました。
     続く2005年は、記念すべき監督在位40周年のシーズンとなりましたが、同時にこれがパターノにとって、最後の指揮となる可能性もあったのです。


     だが、百戦錬磨のパターノは、40年目に鮮やかな復活を遂げることになりました。9月3日の開幕戦、対サウスフロリダ大学戦を白星で飾った「ニッタニー・ライオンズ」は、その後も破竹の快進撃を続け、同じBig10カンファレンスに所属するライバル校たちを続々と撃破していきます。
     そしてペンシルバニア州立大はホームで強豪のオハイオ州立大学も破りましたが、アウェーで対戦した中西部の名門・ミシガン大学には25-27の僅差で敗れ、ここで全勝がストップしてしまいました。ですがここで落ち込むことなくその後は立ち直り、遂にレギュラシーズン終了まで1敗をキープ。10勝1敗の素晴らしい成績で、正月のオレンジボウルを迎えることになったのです。


     一方、この「ニッタニー・ライオンズ」の対戦相手である「セミノールズ」のボウデン監督は、NCAA(全米大学体育協会)ディビジョンTで史上最多勝と、こちらも米国のスポーツ史に残る名監督。また、パターノ自身もボウデンに次ぐ通算2位の勝利数を誇るヘッドコーチであり、まさにこのマッチアップは、フットボールの歴史そのもの、とでも言うべき対決となりました。
     すると試合自体も、まさにこの名将同士の対決にふさわしい、1点を争う緊迫した内容のまま終盤へと突入していきます。そして本戦では決着がつかなかったため、延長戦に突入。しかし、なかなか勝ちを拾うことが出来ない展開が続きました。
     ですが最後は、パターノの勝利への執念が勝ったか、延長3回目にして26−23で「セミノールズ」を振り切り、ペンシルバニア州立大は念願のオレンジボウルを制覇することが出来たのでした。


     こうして深夜にまで及ぶ長い試合は終わり、決着が付きました。そして歴戦の名将はお互いの肩を抱きあい、健闘を称えあいました。時計の針はすでに午前1時となり、日付が変わっています。するとこれを知ったパターノはボウデンに、「こんな試合をするには、俺たちはもう歳を取りすぎているんじゃないか」と語りかけたそうです。
     ただ、確かに年齢的には二人とも立派な「お爺ちゃん」なのですが、フットボールに賭ける情熱とその実力は、若い男盛りのコーチたちにも決して劣ることはありません。これからもパターノはボウデンと共に、若者達をフットボールで鍛え上げ、そして全米のスポーツ界に君臨し続けることでしょう。彼らのような「生きる伝説」の采配を見届けることの出来る私たちも、大変幸せなことだと思いますね。


     いかがでしたか。パターノの素晴らしいフットボール人生について、もっともっとお話したいところではありますが、

     ♪あまり長いは皆さんお飽き ちょいとここらで変わり〜まぁす〜

     それでは、また来月!



     連載第70回
     現代USスポーツ人名録 第21回 マイク・シャシェフスキー(バスケットボール)前編


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその21回目です。


     日本代表の劇的な優勝で幕を閉じた、第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。様々なドラマと、そして問題点を残した今回のWBCでしたが、日本や韓国、またキューバなどの活躍・躍進とは反対に、野球母国・アメリカは準決勝にも残れないという、たいへん残念な結果に終わってしまいました。またそれ以上に、米国のスポーツファンやメディアでの盛り上がりがイマイチなまま、大会が終わってしまったことを残念に思います。
     4月3日はニューヨーク・メッツのホーム開幕戦でしたが「今日からいよいよ野球シーズンの開幕だからね、ほんと野球が始まるのが待ち遠しかったよ」とあるメッツファンが語っていました。
     彼にとっては、WBCはあくまでプレシーズンの一イベントに過ぎなかったのでしょうね。ニューヨークで試合が行われなかった、のというのもありますが、それにしても大会中、WBCの話題が出ることは稀でした。私が日本人で、しかも野球ファンだから「日本が勝ってよかったな」と声をかけてくれる人も多かったのですが、テレビの最高視聴率が50%を超えた日本とは、かなりの温度差を感じてしまいました。


     WBCが、全米規模での盛り上がりを欠いた理由として「3月は大学バスケがクライマックスを迎える時期だから」と指摘する人が多かったのも、今回日本のマスメディアで目につきました。これが本当に的を得た指摘なのかどうかはともかく、確かに3月は「マーチ・マッドネス」という言葉に集約される、大学バスケットボール・トーナメントたけなわの季節であることは確かです。
     ただ、なんでプロの、しかも世界王者を決めるというビッグイベントのWBCが、たかが大学生の大会などに注目度で負けてしまうのか?なかなか理解しがたいことですが、これもまた、カレッジスポーツがプロとともに発展してきた、米国スポーツ文化のひとつの特徴であるといえるでしょう。


     アメリカの3月から4月の初旬にかけては、男女のNCAA(全米大学体育協会)トーナメント、そしてマジソン・スクエア・ガーデンで決勝が行われるNIT(ナショナル・インビテーション・トーナメント)といった、各種バスケットボールの大会がほぼ同時進行のような形で行われ、それぞれファンの注目を集めます。そしてその中でも、やはり男子のNCAAトーナメントが最も人気のある大会であることは確かでしょう。本連載でも以前,第23回で、「NBAより面白い?アメリカ大学バスケットボールの世界」として取り上げましたので、是非そちらも参考までにご覧いただきたいと思います。
     ちなみにこのコラムの中でも取り上げましたが、大学バスケットボールの世界で活躍する監督(ヘッドコーチ=HC)の中には、プロのバスケットリーグであるNBAの監督たちよりも知名度の高い人がたくさんいます。たとえば、マイケル・ジョーダンらを育てた名伯楽、ノースカロライナ大学(UNC)のディーン・スミス元HC。激しい闘志をむき出しに相手に立ち向かう現役最多勝監督、テキサステックHCのボブ・ナイトなどがその代表格と言えるでしょう。また男子ばかりではなく、女子バスケの世界でも、テネシー大学のパット・サミットなどの名前も挙げられます。


     しかし、現代のカレッジバスケで最も有名であり、その手腕が高く評価される人といえば、今回紹介するデューク大学のマイク・シャシェフスキーであることは疑いようがありません。
     このシャシェフスキーについて、上のコラムではこう書きました。


     「マイク・シャシェフスキーは、そのイニシャルから『コーチK』と呼ばれています。」


     どうしてシャシェフスキーなのに、イニシャルがKになるのか?と不思議に思われたかもしれませんが、この人の苗字は”Krzyzewski“ と書いて「シャシェフスキー」と読ませるのです。そしてもちろん、アメリカ人でも読める人はなかなかいませんでしたので、コーチKと呼ばれるようになったのです。


     1947年、シカゴにポーランド系移民の子として生まれたシャシェフスキーは、地元の高校を卒業後、ウエストポイントにある陸軍士官学校に入学。士官候補生としての厳しい教育を受けましたが、同時にバスケットボール選手としてのトレーニングにも励んでいました。この時、士官学校バスケットボールチームの指導にあたっていたのが誰あろう、若き日のボブ・ナイトだったのです。そしてナイトのもと、チーム・キャプテンを務めたシャシェフスキーはウエストポイントを卒業後、陸軍将校として兵役に就きました。


     しかしバスケへの思いは断ちがたかったようで、シャシェフスキーは指導者への道を歩みだします。1974年、ナイトがヘッドコーチに就任していたインディアナ大学のアシスタントになると、翌年からは母校である陸軍士官学校の監督に就任。ここで5年間指揮を執った後、1980年にデューク大学ブルーデビルズのHCになりました。この時の就任会見の映像が残っているんですが、シャシェフスキーは「まず最初に、私の名前はK, r, z, y・・・」とやって、記者達の笑いを誘っています。つまり当時、まだ彼の名前は殆ど知られていなかったことになります。ところが、このデュークへの移籍こそが、彼をバスケの歴史に残る名指導者への道を歩ませることになるのです。


     いかがでしたか。コーチKのデュークでの活躍ぶりにつきましては、また来月じっくりとご紹介することにいたしましょう。



     連載第71回
     現代USスポーツ人名録 第22回 マイク・シャシェフスキー(バスケットボール)後編


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその22回目です。
     今回の本連載は、前回に引き続き、デューク大学のバスケットボールチームを率いる稀代の名将、「コーチK」ことマイク・シャシェフスキーの半生を振り返って行きたいと思います。陸軍士官学校で若き名指揮官、ボブ・ナイトの薫陶を受けたコーチKは、母校の監督を務めたあと、ノースカロライナ州ダーラムにある デューク大ブルーデビルズの新監督(ヘッドコーチ)に就任するのですが...


     1981年に、デュークで監督としての最初のシーズンを迎えた若き日のコーチK。師であるボブ・ナイトからも「素晴らしい資質を持っている」という太鼓判を受けての就任でしたが、最初の3シーズンは38勝47敗と、あまりはかばかしい成績を上げることが出来ませんでした。コーチKの指導者としての能力にも疑問符がつけられ、多くのメディアやファンも「コーチKは、いつまでデュークで監督を続けるのか?」と、解任を考えるようになっていました。
     そして1983年のACC(アトランティック・コースト・カンファレンス)トーナメントでデュークは、1回戦でバージニア大学相手に109-66の大差で完敗を喫してしまいました。


     ですが、コーチKはこの屈辱的な惨敗を決して忘れず、それを励みにしてより一層厳しい指導に励みます。特に宿命のライバルである、ディーン・スミス監督率いるノースカロライナ大学(UNC)ターヒールズとの対戦は、アメリカの大学バスケ界を代表するライバリーとして注目されるようになっていきました。
     当時のUNCは、後に史上最高のバスケ選手にまで上り詰めた現代のヒーロー、マイケル・ジョーダンを擁する強豪でしたが、デューク大学はACCトーナメント準決勝で見事にターヒールズを破ります。こうしてブルーデビルズはレベルの高い激戦区のACCにあって力をつけていき、コーチKも数々の批判を跳ね除けるような実績を積み重ねていったのでありました。


     このように着々と力を付けたデュークは、1986年にはレギュラーシーズンの第1位にランクされ、ACCトーナメントにも優勝。そしてマーチ・マッドネスの中心であるNCAA(全米大学体育協会)トーナメントでも、決勝戦へと駒を進めます。この時はルイヴィル大学カージナルスに敗れて全米王者は夢に終わり、その後もファイナルフォー(準決勝)までは進みながらもあと一歩、栄冠まで手が届かないというシーズンが続きましたが、90年代に入るとついに黄金時代が到来します。
     1991年には、古豪のカンザス大学ジェイホークスを破り、優勝。コーチKは就任11年目にして、遂に悲願のナショナル・チャンピオンに輝くことが出来ました。また続く1992年、ケンタッキー大学とバスケの歴史に残る劇的な名勝負を演じた末に勝ち上がったデューク大ブルーデビルズは、トーナメント準決勝で師・ナイト率いるインディアナ大学フージャーズと対戦。これを見事に破り、決勝ではクリス・ウェバー(現フィラデルフィア76ers)などを擁するスター軍団のミシガン大学ウルバリンズも撃破して、遂に2年連続の大学王座を獲得するという偉業を達成したのです。これにより、シャシェフスキーの名声は確固たるものとなりました。そして同年、ジョーダンやマジック・ジョンソンらのNBAオールスター達によって結成された「ドリームチーム」が出場したバルセロナ五輪での米国代表アシスタントコーチも、コーチKは務めています。


     以来今日まで、コーチK率いるブルーデビルズはカレッジバスケを代表する名門チームとして全米、いや海外にも知られる存在となっていきました。2001年には3度目の全米王座を獲得。そしてNBAへも、グラント・ヒルやエルトン・ブランド、シェーン・バティエなど多くのスター・プレイヤーを送り出しています。
     彼らの活躍を見ても、コーチKの指導力がいかに卓越しているかが証明されているのですが、しかしデューク大のプログラムの真価は、選手の高い卒業率にもあります。スポーツだけに留まるのではなく、学業にも力を入れさせて選手の将来に配慮するというところが、高い評価を得ているといえるでしょう。


     そしてこれらの素晴らしい実績を称え、コーチKは2001年にバスケットボールの殿堂入りを果たしています。殿堂入りを祝うセレモニーには、確執も伝えられたボブ・ナイトの姿もありました。ナイトは感情を全面に押し出す「闘将」、対してコーチKは常にクールな表情を保つ「知将」のイメージが強く、両者は一見対照的なタイプに思えますが、実際にはコーチKもほとばしるような情熱を内に秘めた、熱いスピリットの持ち主のようです。
     また、これだけの実績を誇る名指揮官をプロバスケの世界がほうっておくはずが無く、今まで何度もNBAからのオファーをコーチKは受けてきました。特にフィル・ジャクソン監督が辞任したあと、ロサンゼルス・レイカーズからの要請は5年契約で4000万ドル(推定)だったといわれ、かなり具体的なものでしたが、最終的にコーチKはこのオファーを受けず、引き続きデュークに留まって指揮を取る決断を下したのです。この間、全米のスポーツメディアがコーチKの去就を連日センセーショナルに報道し、大学のキャンパスでは彼の残留を望む学生達が”Stay Coach K!”のシュプレヒコールを上げるなど大変な騒ぎになりましたが、この一件を見ても、彼の存在が大学にとって、いや大学スポーツ界全体にとっても如何に大きいかがお分かりいただけると思います。


     ですがそれでも、彼をノースカロライナの一大学の監督だけに留めておくのはとうとうムリになったようです。というのも、2004年のアテネ五輪で銅メダルに終わった米国代表チームの新ヘッドコーチにコーチKが就任したからです。もちろん最大の目標は、2008年の北京五輪で金メダルを奪回することですが、その前に今年の夏、日本で開催される世界選手権が待ち受けています。
     私は、NBAでプレーするスーパースター軍団をカレッジ最高のコーチが指揮する、この「新ドリームチーム」の活躍を楽しみにしていたいと思います。そしてアメリカのスポーツ文化を代表するカレッジバスケのシンボル的存在として君臨し続けるコーチK自身の活躍をも楽しみにしたいと思います。


     いかがでしたか。コーチKとデューク大バスケットボールチームの素晴らしさについてもっとお話したいところではありますが、

     ♪あまり長いは皆さんお飽き ちょいとここらで変わり〜まぁす〜

     それでは、また来月!...あ、今月かも(汗)。


     ※現代USスポーツ人名録、第23回〜はこちらから。

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