俺が好きなスポーツ by ダイスポ 現代USスポーツ人名録

     現代USスポーツ人名録 〜その3〜(連載第61回〜64回)


     ■現代USスポーツ人名録 第12回 ケンタッキー・ダービー
     ■現代USスポーツ人名録 第13回 マイク・ハーカス&米国代表イーグルス(ラグビー)
     ■現代USスポーツ人名録 第14回 橋本真也追悼&ディック・マードック(プロレスリング)
     ■現代USスポーツ人名録 第15回 レジー・ミラー(バスケットボール)



     連載第61回
     現代USスポーツ人名録 第12回 ケンタッキー・ダービー


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその12回目です。


     ケンタッキー州。この名前を聞くと、多くの皆さんが「ケンタッキー・フライドチキン」(KFC)を連想されると思います。あるいは、そのフライドチキンのCMでも使われていた、フォスターの名曲『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』の美しくも、どこか物悲しいメロディでしょうか。またお酒の好きな方なら、名産品であるバーボンウイスキーの、あの深い味わいを思い出されたかもしれませんね。一方では、ケンタッキーは馬の生産地としても有名です。


     このケンタッキー州で最大の都市は、ルイヴィルという街です。KFCの本部があり、またモハメド・アリの出身地としても知られ、オハイオ川に面した美しい町並みを誇るルイヴィルですが、ここでは5月の初旬にアメリカ、いや世界中の人々が注目するスポーツのビッグイベントが開催されます。それは市内のチャーチルダウンズ競馬場で開催されるケンタッキー・ダービーです。アメリカ競馬の「トリプルクラウン」、3歳三冠レースのトップを飾る最初のそして最大のレースとして、このケンタッキー・ダービーは1875年以来、実に130年もの長い歴史を誇っています。そして競馬ファンにとっては、このレースをチャーチルダウンズの観客席で見ることが長年の夢となっているのです。場内には、ダービーに関する博物館が併設されており、長い年月をかけて培われてきたダービーの、いや米国競馬の伝統と、馬を大切に育て共に生きてきた、ケンタッキーの人々の素晴らしさを実感することが出来るようになっています。


     さてここで、日本とアメリカの競馬の違いについて説明しておきましょう。日本の3歳三冠レースといえば、春に行われる皐月賞(中山)、日本ダービー(東京)、そして秋の菊花賞(京都)ですが、アメリカでは最初のケンタッキー・ダービー、ボルティモアのピムリコ競馬場で開催されるプリークネス・ステークス、そしてニューヨークのベルモントパーク競馬場で行われるベルモント・ステークスと、全てのレースが春に集中して行われます。
     また芝コースで行われる日本とは違い、米国ではダートコースを走ること。それに日本ダービーは2400mですが、ケンタッキー・ダービーは皐月賞と同じ2000mの距離で行われることでしょうか。


     ただ、三冠レース全てを勝ち抜くことの難しさだけは、日本もアメリカも変わりはありません。日本では、1994年のナリタブライアンを最後に三冠馬が10年以上出ておりません。今年の皐月賞を制したディープインパクトに期待がかかりますが、アメリカでは1978年の「アファームド」以来、実に27年の長きにわたって三冠馬が出現していないのです。この70年代には、アメリカに強い馬がたくさん現れまして、アメリカ史上最強の呼び声も高い「セクレタリアト」や「シアトルスルー」も、アファームド同様にトリプルクラウンを獲得しましたが、それ以来今日まで三冠馬の系譜には空白が続いています。2002年には「ウォーエンブレム」2003年は「ファニーサイド」そして昨年は「スマーティジョーンズ」が、それぞれケンタッキー・ダービーとプリークネスを勝って三冠盗りに挑んだものの、いずれもベルモントで敗れて二冠止まり、夢はあと一歩のところで叶いませんでした。


     ただどんなに強くても、初戦のケンタッキー・ダービーに敗れてしまっては、三冠の夢はその時点で潰えてしまいます。今年も多くの優れたサラブレッドたちが、ダービーの栄冠を目指してきました。そして2005年5月7日、遂に運命の日はやって来ました。第131回ケンタッキー・ダービーが行われる日がやってきたのです。レースを見るために、スタンドには実に15万6千人もの大観衆が詰めかけました。ダービーは「スポーツの中で最もエキサイティングな2分間」といわれます。多くの人々がその興奮を味わいにルイヴィルへやってきたのでしょう。もちろん、名物のカクテルであるミント・ジュレップも味わいに...


     今年の一番人気を集めたのは「ベラミーロード」。フロリダ州で牧場を運営している馬主、ジョージ・スタインブレナー氏の所有するベラミーロードはニック・ジト調教師に鍛えられ、4月9日のウッドメモリアルを圧勝、晴れ舞台にまで駒を進めてきました。騎乗のカステラーノ騎手も、この馬の持つ高い能力には驚いたようです。またオーナーのスタインブレナー氏は、ニューヨークで「ヤンキース」という野球チームを所有しておりますが、このダービーで勝利することは彼にとって長年の夢になっています。俗に「ダービーを制するのは一国の宰相になるよりも難しい」といいますが、スタインブレナーにとっては「ケンタッキー・ダービーを制するのは、ワールドシリーズ・チャンピオンになるより難しい」という事になるのかもしれません。


     レースは速い展開で進み、3コーナーを回ったところで本命馬ベラミーロードが先頭に並びかける。直線で2番人気の「アフリートアレクス」が抜け出しにかかるも、外から穴馬「ジャコモ」がきた!横一線の壮絶な叩きあいを抜け出して、最初にゴールを通過したのは全く注目されていなかった、伏兵ジャコモ。そして2着に飛び込んだ「クロージング・アーギュメント」も同じく人気薄と、まさに大波乱のレースとなってしまいました。
     対照的に、本命だったベラミーロードは伸びきれず7着に大敗。しかもレース後左前脚に故障発生が判明し、21日に行われるプリークネスを回避することが決定しています。


     明暗がくっきり分かれた今年のダービーとなりましたが、これからも競馬というスポーツを愛する人々の為に、多くの名馬たちが死力を尽くした素晴らしいレースを見せてくれることでしょう。


     いかがでしたか。来月もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。



     連載第62回
     現代USスポーツ人名録 第13回 マイク・ハーカス&米国代表イーグルス(ラグビー)


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその13回目です。


     今月のテーマは、アメリカのラグビーについてです。
     「えっ、アメリカにラグビーなんてあるの?」
     アメリカン・スポーツに相当詳しい方でも、米国のラグビーについてはご存じない方が多いと思います。というよりも、当のアメリカ人自身が、ラグビーというスポーツについて知識を持ち合わせていない人が多いし、ラグビーを実際にプレーしたことがある人も少数派だと思います。
     「アメラグなら知っているけど...」


     アメラグという言葉をご存知でしょうか。1970年代〜80年代の前半くらいまでは、アメリカン・フットボールの事を「アメラグ」と呼ぶ人が多かったのです。おそらくは「アメリカン・ラグビー」の略語でしょう。フットボールファンの皆様ならご存知の通り、この名称は正しいものではありません。しかしラグビーとアメリカン・フットボールは、同じような形状の楕円球を使用しますので、きっと混同される方が多かったのだと思います。しかもこの両競技は、いわば親戚関係にあたりますからね。


     では、本題に入りましょう。
     アメリカでもラグビーは、決して盛んではありませんがプレーされています。そして米国代表チームは「イーグルス」の愛称で知られ、ワールドカップにも1987年の第1回大会に出場を果たしております。一方、我らが日本代表は、このラグビー・ワールドカップには毎回出場しておりますが、なぜかイーグルスが苦手。2003年に豪州で開催された第5回大会でも両国は対戦していますが、日本は接戦の末26-39で敗れてしまいました。


     この日本戦で攻撃の司令塔、スタンドオフとして出場したのがマイク・ハーカス選手です。1979年にバージニア州で生まれたハーカスは、米国では珍しいプロのラグビー選手として、イングランドや豪州などのラグビー先進国でもその優れた才能を発揮してきました。W杯の日本戦ではトライを挙げてイーグルスの勝利に貢献するなど、日本のファンにとっては悔しい思い出の残るハーカスですが、実力は折り紙つき。2004年にはイングランド最強リーグ、プレミアシップの強豪セール・シャークスに所属し、活躍の場を広げていきました。米国内でプレーする選手が多いイーグルスにあって、本場のレベルを肌で体験しているハーカスは貴重な存在だといえるでしょう。


     このハーカス率いるイーグルスが今年の5月に来日し、日本、カナダ、そしてルーマニアとの4カ国トーナメント「スーパーカップ2005」に出場しました。攻撃の軸となるハーカスは、英国からチームに合流するのが遅れコンディションが万全ではなかったせいか途中出場となり、イーグルスはカナダに26-30と敗れてしまいます。
     しかし、続くルーマニア戦ではハーカスもスタメンに復帰し、米国は28-22で快勝。そしてハーカスはこの試合で、米国代表の歴代最多得点選手になっています。


     日本遠征を終えてアメリカに戻ってきたイーグルスは、コネチカット州ハートフォードに北半球王者のウェールズを迎えて、6月4日に対戦することになりました。ラグビー王国として知られるウェールズは、今年の6カ国対抗ラグビーで悲願の全勝優勝を遂げ、今最も勢いに乗っているチーム。主力メンバーは、全英代表「ライオンズ」のニュージーランド遠征に参加しているため今回の北米遠征組には入っておりませんが、それでも層の厚いウェールズらしくバランスの取れた素晴らしいチームを編成し、アメリカ・カナダとの国際試合に臨むことになりました。


     試合が行われるハートフォードは、ニューヨークから電車で2時間くらいのところにある静かな地方都市です。私もこの試合を観にNYから電車に乗って出かけたのですが、ハートフォードへ向かう車内には、赤いジャージーを着た一団がたくさん乗り合わせておりました。アメリカ代表のファンか?いえいえ、ウェールズ・サポーターの皆さんです。わざわざアウェーの試合にまで乗り込んでくるとは、さすが「王国」のファンは気合のノリが違います。「来週のカナダ戦も見てから帰るよ」と、その中の一人がおっしゃっていました。
     試合会場のRentschler Fieldは、コネチカット大フットボールチームが本拠地として使用しております。また8月には、サッカーW杯北中米カリブ海地区最終予選、アメリカ対トリニダードトバゴ戦の会場にも選ばれておりますが、この日ばかりは熱心なラグビーファンが集まりました。私にとっても、米国内でトップレベルのラグビーを生観戦するのはこれが初めて。両チームの選手が入場し、まずはウェールズ国歌「ランド・オブ・マイ・ファーザーズ」そしてお馴染みの米国国歌が斉唱され、国際試合らしい緊張感に徐々に包まれていきました。もちろん、ハーカスも先発メンバーに名を連ねております。いよいよキックオフ!


     だが、ウェールズはさすがに強かった。試合開始と同時にパワフルなフォワードが突進し、スピード溢れるバックス陣が素晴らしい突破力を見せてアメリカの守備陣をズタズタに切り裂きます。次々とトライを重ねていくウェールズに、赤いジャージーのサポーター達は大喜び。米国ファンも「USA!USA!」コールで対抗しますが、熱心な声援にイーグルスは応えることが出来ず、ペナルティゴールで3点を返すのが精一杯でした。


     結局、終わってみれば77-3と、11個のトライを挙げたウェールズが完勝。対照的にアメリカは、ホームでノートライに終わるという、屈辱的な大敗を喫してしまいました。ラグビー王国の実力をまざまざと見せ付けられる結果に終わりましたが、それでも、イーグルスの選手達は米国にラグビーという競技を根付かせるべく、これからもチャレンジを続けていくことでしょう。そしてハーカスはヨーロッパでの経験を通じて、世界有数の司令塔へ成長を遂げていくことを期待したいと思います。


     いかがでしたか。来月もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。



     連載第63回
     現代USスポーツ人名録 第14回 橋本真也追悼&ディック・マードック(プロレスリング)


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその14回目です。


     7月11日午後、日本中のプロレスファンにとって信じられない、衝撃的なニュースが飛び込んできました。「破壊王」橋本真也選手が突然の死去。まだ40歳の若さでした。


     1965年、岐阜県に生まれた橋本さんは、1984年に新日本プロレスへ入門しました。デビュー後は、恵まれた体格を生かした大型レスラーとしての道を歩んでいくことになります。橋本さんがレスラーへの道を志した1980年代前半は、日本中を熱狂の渦に巻き込んだプロレスブームの時代。アントニオ猪木率いる新日本プロレスは、過激な「ストロングスタイル」を旗印に、ジャイアント馬場の全日本プロレスと共にファンの人気を二分しておりました。


     若手有望株だった橋本さんは、パワフルなキックを武器に頭角を現します。そして後には「闘魂三銃士」(橋本、蝶野正洋、武藤敬司)の一人として、メインイベンターにまで上り詰めました。IWGPヘビー級のタイトルを獲得、また98年にはトーナメント「GIクライマックス」優勝と、着実に成長を遂げた橋本さんは、新日本プロレスを代表するスターの地位を確立したのです。


     柔道から転向した小川直也とは幾多の名勝負を演ずるも、いったんは現役引退を表明。後に復帰を果たしますが、結局は新日と決別して新団体「ゼロワン」を設立するなど、戦いの場を広げていきました。しかし、訪れてしまった人生のゴング。橋本さんを愛したファンは、突然の別れに驚き、悲しみを隠しませんでした。40歳、まだまだこれからやるべきことが沢山あったのに、あまりにも早すぎる。
     そんな橋本さんの得意技に「垂直落下式DDT」がありました。相手の体を一気に持ち上げ、そのまま脳天からマットに叩きつける豪快な技であり、どんな強豪でもこれを食らえばフォールを奪われるという、まさに一撃必殺のフィニッシュ・ホールドでありました。


     そしてこの技を見ると私が思い出したのは、ディック・マードックという選手のことでした。1947年テキサス州に生まれ、68年に日本プロレスへ初来日を果たしたマードックは、以後も全日本、新日本などの各団体を渡り歩き、必殺技「ブレーンバスター」を武器に、日本人選手を痛めつけるトップ外国人として長年活躍しました。どちらかと言えば悪役に類する選手だったにもかかわらず、マードックは日本のファンにも人気を博するようになります。単なるラフファイトに留まらぬ一級品のテクニックと、どこか憎めない陽気なキャラクターの持ち主だったからでしょう。


     プロレスでは、技の進歩、特に受身の技術が進むと共に、必殺技が単なる痛め技となり、やがてはつなぎ技へと転落していくことがよくあります。ブレーンバスターもそんな技の一つだったのですが、橋本さんの垂直落下式DDTには(名前の違いからも、厳密にはブレーンバスターと異なる技に分類されるようですが)昔ながらの「これを食ったら絶対に助からない」という、強烈な説得力があったのを覚えています。
     そしてマードックも、ブレーンバスターを痛め技ではなく、自分のフィニッシュホールドとして長らく用いていました。”Brain buster!”と叫んで観客にアピールすると、相手を抱え上げ、そして上空で静止させます。ここまでは他の選手と同じなのですが、マードックは背中から落とさず、相手の頭からゆっくりと、マットに突き刺すように叩きつけていたのです。見栄えの良さを求めるなら、後方へ一気に投げ飛ばすスタイルの方が格好良いのですが、ちょっと無格好なマードックの垂直式ブレーンバスターにはクラシカルな匂いがして、私は好きでした。


     全盛期には、プロレス界で当時最高の権威を誇っていた、NWA世界ヘビー級王者の有力候補に挙げられていたマードックですが、このベルトを巻くことは一度もありませんでした。生来のアバウトな?性格が災いしたのでしょうか、結局は、プロレス界の頂点へ上り詰めることが出来ませんでした。だが一方では「ガチンコ勝負」ならば、マードックはチャンピオンより強いという評判もありました。どんな強豪を相手にしても、怯むことなく五分以上に渡り合えるテクニックとガッツの持ち主だったのです。
     マードックの在りし日の写真を見ると、目が行くのはその体型です。贅肉をそぎ落としたK1の選手や、筋肉の鎧に身を包んだWWEの選手達とは全然違う。ズングリとした「ビール腹」で、お世辞にもシェイプアップされた体とはいえません。そして試合中にはよくタイツをめくられて、白いお尻が「ペロン」と出てしまうという見せ場?もありました。


     そんなお茶目なマードックおじさんでしたが、ファンには本当に人気がありました。橋本さんは、子供がそのまま大人になったような人...と言われましたが、マードックもテキサスの悪ガキが大人になったような自由奔放さが愛され、古きよきアメリカン・プロレスの楽しさを日本人に教えてくれたと思います。
     ある年、アントニオ猪木とのビッグマッチに臨んだマードック。試合前に日米両国の国歌が演奏されると、マードックはアメリカ国歌を聴きながら、場内に掲揚された星条旗をじっと見つめておりました。そして演奏が終わるや、国旗に向かってサッと敬礼をしたのです。そのさりげない仕草がいかにも格好よくて、客席にいた私は胸が熱くなりました。


     残念なことにマードックも、1996年6月に49歳の若さで死去しました。花は惜しまれて散る。マードックも、そして今回の橋本さんも、多くの人々に強烈な印象を与えながら、ある日突然この世を去りました。今回、この2人の思い出を書き記すことで、心から冥福をお祈りしたいと思います。


     いかがでしたか。来月もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。



     連載第64回
     現代USスポーツ人名録 第15回 レジー・ミラー(バスケットボール)


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその15回目です。


     その前に、うれしいニュースからお伝えしておきましょう。
     本連載第5回にて取り上げました、陸上十種競技の日系アメリカ人選手ブライアン・クレイが、8月10日にヘルシンキで行われた世界陸上選手権において見事金メダルに輝きました。アテネ五輪の優勝者であるロマン・シェブルレ(チェコ)を破っての、文句無しの世界一です。25歳とまだ若い選手だけに、2年後のアテネ五輪もたいへん楽しみですね。


     それでは、本題へまいりましょう。
     今回は、個人的な思い出話から初めて行きたいと思います。
     1997年、私は日本からアメリカへとやって来ました。中部最大の都市であるシカゴから車で5時間ほど南に走ったところにある、インディアナ州の小さな田舎町で米国生活をスタートさせたのです。それまでの私は、東京や大阪などの都会にしか暮らしたことが無かったため、広大な自然に恵まれたインディアナでの日々は、時間がゆったりと流れる素晴らしいものでした。


     インディアナでは英語を学ぶ留学生として第二の学生生活を始めたのですが、なんと言ってもメジャーリーグを初めとした、アメリカンスポーツを目の当たりに出来ることがたいへんな喜びでした。インディアナ州にはメジャーの球団が存在せず、野球人気はさほど高くありません。またインディアナといえば「インディ500マイル」に代表されるモータースポーツのメッカとして世界中で知られておりますが、一方ではバスケットボールも根強い人気を誇っております。フージャー(インディアナっ子)達のバスケに対する思いと熱狂振りたるや、「バスケは、インディアナの“宗教”だ」という人もいるくらい。ジーン・ハックマン主演の映画「Hoosiers(邦題『勝利への旅立ち』)」を見ていただければ、その意味がきっとお分かりいただけると思います。そしてプロバスケの頂点である、NBAに所属するインディアナ・ペイサーズにも人気と注目が集まっておりました。


     90年代後半のNBAは、フィル・ジャクソン監督率いるシカゴ・ブルズが黄金時代の円熟期を迎え、マイケル・ジョーダンやスコティ・ピッペンを中心とした史上最強の陣容を誇っていました。
     だが、その強かったブルズに真っ向から立ち向かったのが、ラリー・バード率いるペイサーズでした。州都インディアナポリスに本拠地を置くペイサーズは、地元出身(選手としてはボストン・セルティックスでプレー)の英雄、バードを新監督に迎えてチームを強化。そして1998年シーズンにはプレーオフへ進むと、イースタン・カンファレンス決勝まで勝ち上がり、「ブルズ帝国」に敢然と立ち向かったのです。このペイサーズの中心選手こそが、今回の主役であるレジー・ミラーでした。


     ミラーは1965年8月24日、カリフォルニア州ロサンゼルスの郊外、リバーサイドに生まれました。地元の名門校であるUCLAを経て、1987年にドラフト指名を受けてペイサーズ入団以来、ミラーはインディアナ一筋にプレーを続け、リーグを代表する「クラッチシューター」として君臨を続けてきました。勝負どころの終盤で、劇的な3ポイントシュートを決めて、チームに勝利をもたらす選手へと成長したミラー。特に1995年のプレーオフで、ニューヨーク・ニックス相手に演じた奇跡の大逆転劇は、今でもファンの間で語り草となり、アメリカのスポーツ番組では繰り返しこの場面が放送されています。またニックスの大ファンとして知られる、映画監督のスパイク・リーとの「抗争」も、ファンの間ではすっかりお馴染みのものとなりました。そんなミラーの神がかり的な勝負強さを、人々は「ミラータイム」と名づけました。


     1996年には、アトランタ五輪に米国代表として出場、「ドリームチーム」の一員として母国に金メダルをもたらしたミラーでしたが、NBAでの優勝には縁がありませんでした。そこへ巡ってきたビッグチャンスが、私が目の当たりにした98年のカンファレンス決勝。ミラーは、ジョーダンを相手にしても怯むことなく力強いプレーを続け、ペイサーズはブルズと互角の勝負を展開。シリーズは第6戦を終わって、3勝3敗のタイに持ち込まれます。そしてペイサーズが勝つたび、インディアナの人々のボルテージは上がる一方でした。シカゴとは距離も近いだけに、ブルズに対する対抗意識も高かったのです。私はアメリカンスポーツにおける、ホームタウンの盛り上がりがこんなに凄いものかと驚きました。日本にいた頃は、正直言ってNBAがそれほど好きなわけではありませんでしたが、この時を境に、私はバスケットボールの虜になってしまいました。言ってみれば「バスケ教」の洗礼を受けたようなものです。


     だが、この時もペイサーズに栄光の時はやってきませんでした。勝者を決める第7戦でブルズに敗れ、またしてもファイナル出場はならなかったのです。ジョーダンという、偉大な「太陽」の影に隠れ続けたミラーは、この時も光り輝くことは出来ませんでした。だがその後も、ミラーは大都市にある他球団へ移籍することなく、インディアナでのプレーを続けます。2000年にはニックスを破り、遂にNBAファイナルへと駒を進めましたが、この時は黄金時代を迎えつつあったロサンゼルス・レイカーズの敵ではありませんでした。


     2005年のシーズン終了と共に、今年40歳の誕生日を迎えるミラーは現役を引退しました。ペイサーズは今年もファイナルへ進むことが出来ず、悲願のチャンピオンリングを手にすることは、遂に一度もありませんでした。「無冠の帝王」としてコートを去ることになったわけですが、それでもミラーの半ば異常とも言えるクラッチ振りを決して忘れることは出来ないでしょう。そういえば今年、ニックスの本拠地マジソンスクエア・ガーデンで行われたニックス戦の試合終了後、ミラーは「仇敵」スパイク・リーと抱き合い、そして観衆も、ミラーに惜しみない歓声と拍手を送っていました。憎い宿敵だったはずのニックスファン達も、やはり彼のバスケ人生を称えずにはいられなかったのです。
    さようなら、そしてありがとう、レジー。


     いかがでしたか。もっともっと、レジー・ミラーの素晴らしいプレーについてお話したいところではありますが、

     ♪あまり長いは皆さんお飽き ちょいとここらで変わり〜まぁす〜


     それでは、また来月!


     ※現代USスポーツ人名録、第16回〜18回+番外編はこちらから。

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